2017年12月07日17時43分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-12-08 12:57:28

グールドという生物学者は既に亡くなっているが、彼の書いたポピュラー・サイエンスというか通俗的な本は続々と翻訳されて、殆ど全て日本の出版社から翻訳されていると言ってもいいくらいだ。しかし、彼の主著とも言える The Structure of Evolutionary Theory (2002) は、この先もとうぶん(あるいはずっと)翻訳されないのだろう。もちろん 1,500 ページに迫る大部の本なので、出版社の採算を考えるとビジネスとしては理解できるのだが、出版文化として考えると、そろそろこういうやり方では英語の本を直に読めるレベルの高校生らには、日本の出版社というのは見向きもされなくなると思う。

だいたい、通俗書が売れ始めると寄ってたかって同じ人物の通俗書を訳し始めるのは、売れ筋として「堅い」と判断するからだろうが、実際のところ知識や思想の伝達という点で眺めると、通俗書を何十冊も読む時間とお金があれば、その人物の主著だけを読む方が(それを読むための勉強も糧になるのだから)実は効率がいい可能性もあるし、正確な理解もできる。ここ数年、日本では新書の出版がブームだと言われて新しいレーベルも立ち上がったが、それでいったいどのていど本が売れて、我々の知識なり知恵が向上したのだろう。僕は、もちろん新書の中にも優れた仕事が数多くあるのは承知しているし、僕が考えるところの「良い本」を新書として読むのは好きだ。しかし、世にあふれている通俗本は、それらを 100 冊や 200 冊ほど読んだところで、底の浅い薀蓄になるだけでしかない。

何度も繰り返しているポイントだが、われわれヒトという生物は、もちろん幾らかの差はあっても本質的に宇宙論的なスケールでは脆弱で凡庸な個体であって、特筆すべき才能などありはしない。しかし、何事か一つでも専心して取り組めば、少なくとも当人にとっては満足のゆく成果が上げられるかもしれないのでがんばろう、というのが多くの人が認める価値観だろう。ということは、あれやこれや雑多なものを読んで自分の課題を見つけたら後は徹底して集中して自分の課題に取り組むのが望ましく、いつまでも通俗書の類を読み漁っているのは、そういう暇つぶしにこそ何か特別な価値があると思い込んでいる自己欺瞞に陥った人間だけなのである。

もちろん、何に専心するべきかは簡単に見つかるとは限らないし、見つからないということ自体を責めても意味がない。たいていはそういうものであって、専心するべきことが見つかるのは、当人の能力とはさほど関係がない事情による場合もあるからだ。そして、専心していることが自分にとって「本当に」専心するべきことなのかどうかを判断する「正しい」基準も、自明とは言えないだろう。そういう意味では、たいていの天命とか天職などというものは思い込みの可能性があるわけだが、どこかで割り切るということも必要なのだろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook