他ならぬ凡人である僕の読書方針について

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2013-02-19 22:25:30;
Modified: 2013-04-05 22:40, 2015-04-17 15.26, 2017-03-25 13:09:02, 2017-05-15 10:19:25;
Last modified: 2017-10-17 09:16:46.

I

世の中には「読書論」と呼ばれる論説が数多くあります。僕がここで紹介する方針や基準は、恐らく独自のものでもなければ特別の努力や才能や莫大な金銭を必要とするわけでもないと思うので、多くの人が既に感じたり考えていることと何も変わりないかもしれません。寧ろ、そういうものであるべきだとも考えているので、「凡人である」僕の方針とは、すなわち誰でも考えて実行しているていどのことだろうという意味にもなります。但し、ここで紹介したり言及する方針や基準が言語表現や概念として平凡だったり簡潔だからといって、それらを誰でも現に実行できる(または実行し続けられる)とは限りません。世にあふれている経営書や自己啓発本や情報商材詐欺のテキストにも言えるように、言語表現あるいはそれが意味している内容は簡単でも、現に実行するのが難しいからこそ、胴元や発案者はその責任を逃れられるわけです。したがって、方針や実務的な手順を幾つかご紹介しますが、それらの中には読者にとって言うは易く行なうは難しというものがあるかもしれません。但し、僕自身が出来ていないことをベキ論あるいは理想として語ることは差し控えていますので、自分がこうして方針に従っていると具体的にご紹介するように心がけて解説したいと思います。

まず、本稿では物体として一つのまとまりである「著作物」を対象にします。したがって、「読書」という言葉は使っていますが、ここでは書物だけでなく、雑誌に掲載される論文も含めています。論文と本とでは分量が違うので同列に扱えないと思うかもしれませんが、本は「言いたいこと」を正当化したり経緯や根拠を説明するのに、それだけの分量を要しているだけだと考えます。したがって、「たったこれだけを主張するために本を書いたのか」という結果もあれば、「これだけのことを主張するのに論文ていどの議論しかできないとは」という逆の結果もあるでしょう。こういう単純な方針を採っている理由は、まず僕が大して記憶力のない人間であるということです。もちろんノートを録ったり専用の読書カードを作ったりもしましたが、自分の考えをかたちづくるための素材になるのは強く留めている記憶です。何か議論するたびにメモ帳をめくっているようではいけません。何か一つのまとまった著作物を読んで主張していることを受け取るというだけなら、本であれ論文であれ、記憶すること(あるいは僕の能力から言って記憶できること)は、せいぜい一つにしておく方がよいと思っています。大部の本だからといってポイントが幾つもある筈だと想定してしまうと(それは否定する理由はもちろんありませんが)、内容を記憶しなくてはならなくなるようなストレスを感じるかもしれません。しかし、それは逆に大部の本であれば幾つも記憶にとどめる「価値のある内容」がある筈だという、これも肯定する理由のない先入観を強化してしまうことになります。

対して、論文であれ本であれ、何か主張したいことがあって書かれているのですから、そこには著者の言いたいことが最低でも一つはあると考える方針は、単純であることに加えて、著作物にポイントが複数あったとしても、少なくともその一つは受け取る用意があるという意味で間違いを避けられます。大部の本について、三つあるポイントの一つしか理解しなかったり記憶に留めなかったとしても、それが最も重要なポイントであればなおさら、少なくともポイントの一つは勉強になっているわけですから、それ以上のポイントがあるかのように想定しても、あるのかないのか分からないものを何度も繰り返して読んだり考えたりするというのは、自分が生涯を賭して読解に取り組んでもよいと思える著作や古典であればともかく、殆どの著作物については不要の方針だと思いますし、そんなことを自分が読んでゆく個々の著作物について気にする必要はないと思います。寧ろ、そんな心配をするくらいなら、最大のポイントが何であるかを正確に読み取るためにはどうすればいいかを考える方が有益ではないでしょうか。最大のポイントが、評価という段階において最後は否定されてしまうような主張であろうと構いません。そもそも、最終的に自分が肯定すべき議論だけを最初から読んだり学ぶようなプロセスを、学問の研究において誰が誰に要求できるというのでしょうか。そういう都合のよい手順が最初から決まっていて、誰かが教えてくれるとか、どこかの本に書いてあるとか、要するに何らかの方法で自分にとって無駄のない研究プロセスを保証してくれる道筋を知りうるような学問は、どこにも存在しません。誰であれ、多かれ少なかれ回り道をしながら学んだり研究するものです。

論文であれ、本であれ、著者が訴えようとしている議論を一つだけ拾い上げるという作業には、時間がかかります。少なくとも僕は、自称速読家のように1冊の新書を数十秒で読む人間ではありませんし(何度か表明したように、僕は速読というのは単なるザッピングだと思っています)、サヴァン症候群のような能力をもつ人々のように書かれている字面を全て記憶に留めるような人間でもありません。恐らく1冊の新書を読むのに、僕は4時間ていどの時間を要すると思います。いま社会人として働きながら勉強している状況では、昼休みに30分くらいずつ新書を読み進めているので、せいぜい新書を1週間に一冊くらいしか読めません(帰宅したら他の勉強をしたり、こうして文章を書いたりしているので、一日のうちで寝たり働いたり小便している時間の他に読書しかしていないなどという生活をしているわけではありません)。これでは、1週間に一つの議論を記憶に留めることしかできないので、効率は非常に悪いと言えます。学生時代は、アルバイトもしていましたが、もっと勉強に集中できる時間はあったので、読書の速さは大して変わらないにしても、一日に新書を二冊読むといったこともありました。したがって、いま限られた時間(残りの人生という意味でも)の中で効率よく学んでゆくためには、色々なことをここで書いているように割り切る必要があります。もちろん知的研鑽なるものは割り切りよりも一種の「こだわり」を必要としますが、方針を改善するなり洗練すれば切り詰められるはずのことがらにこだわり続けて悲哀を装うのは学術的な態度とは言えず、単なる自意識やセンチメンタリズムというものでしょう。

上記で述べた内容は学生時代からの方針ですが、学生時代であれば「こんなものは読まなければよかった」という読書でも構いませんでした。しかし、そのような読書による時間の浪費は、オッサンになると耐え難く感じられるようになります(笑)。そのために、自分が大学で学んだという経験を活用しなくてはなりません。最も有効に活用できる経験は、自分が抱えている当該の研究プログラムや思索のテーマにとって、或る文献を優先して読むべきものかどうか、あるいはまともな著作であるかどうかを(独断であるにせよ、少なくとも)選り分けるということです。僕は大学では(科学)哲学を専攻しましたので、次に科学哲学という特定の分野を想定して、次に読むべき本を選別するとか仕分けるための基準についてご紹介します。

そのような選別には誤りもあるでしょう。例えばマイケル・ポラニーの著作は、現代思想やポストモダン思想あるいはニューアカデミズムなどと言われた思潮に関心を持つ人(かつて僕も栗本慎一郎の著作を熱心に読んでいたので、その一人でした)、あるいはアメリカでも一部の研究者に読まれていましたが、はっきり言って分析哲学・科学哲学のメインストリームに位置する研究者たちからは黙殺されていました。現在でも、ロイ・バスカーなどと共に、そうした「傍流」の人々の著作は、科学哲学において一種の気晴らしとして読まれているにすぎません。そういう大勢が誤りであるかどうかは、個々の研究者の判断を「いつ判定するのか」にも依存するでしょうから、誰にも分からないでしょう(なぜ、そういう判定に歴史的な制約があるのかは、いまこの時点でポラニーやバスカーの著作が分析哲学・科学哲学のメインストリームにおいて「刺激的で面白い読み物」ていどの扱いしか受けていないという現状、そしてそういう現状が大勢として正しいかどうかを疑えるという事実によって説明できます)。

もちろん、僕はポラニーやバスカーの著作が(分析哲学や科学哲学の著作がもつスタイルから外れているという違和感を覚えるにすぎないので)まともな成果でありうると思っていますが、しかし科学哲学の研究において他を差し置いても丹念に検討すべきであるとまでは思っていません。つまり、僕も彼らの著作はせいぜい「メインストリームから外れた面白い読み物」だと見做しています。また、科学哲学だけに限った話ではありませんが、東欧やロシアやアフリカの著作を掘り出してきて代弁者を気取ったり、たかだか大学院で数年ほど本人の授業を受けたていどのことで翻訳の優先権があるかのようにふるまうような人々など、せいぜい大阪の裏路地を歩きまわって「ディープな大阪」を発見したとわめいている、三流ジャーナリストや左翼の社会学者みたいなものだと思っています。非常に粗雑な基準かもしれませんが、僕にはかつて分析哲学や科学哲学を学んだという経験から、「どれがまともな著作なのか」という嗅覚のようなものが備わったはずだと仮定しています。よって、書店で哲学の書棚に「超訳」とか「野生の科学」とか「フクシマ」とか「禅と誰それ」とか「わかりやすい」とか「完全読解」などという文言があれば、その手の本をわざわざ時間とお金を割いて読む必要はないと断定してよいという方針を採ります。繰り返しますが、そのような断定が「間違っているかどうか」などというのは、実は哲学的にはどうでもよいことです。そういう断定をしたのであれなかれ、その末に自分で納得のゆく成果を出してみて、学会誌に投稿するなりブログ記事として掲載するなりして世に問えばいいわけです。現状では十分に納得できないときに、或る人物の著作を参照すればよいという明快な見通しを立てられたら、その後で当該の人物の著作を読めばよいでしょう。最初から、あらゆる哲学者の著作を読んでいなければ「よい研究」ができないなどと考えてしまう人に、「私は哲学をやらなければならない」という本物の動機があるとは思えません。

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II (2017-05-15)

ここから以降は追記していくたびに節を分けることとします。

[...] to finish what is on our plates before we get up for more. Make sure you master what you have before moving on.

Charles Chu, “The Collector’s Fallacy: Why We Gather Things We Don’t Need

僕も積読する傾向にありますし、ブラウザの Firefox で使うアドオンの Scrapbook(現在は Danny Lin さんがソースコードを引き継いで Scrapbook X として公開しています)にウェブページや PDF を毎日のように記録しています。250 GB の HDD へデータが入らなくなってきたので、今年(2017)からは Blu-ray ディスク(50 GB)へカテゴリーごとに書き出しているのですが、過去のページや PDF を検索して読み直す機会は、確かに滅多になく、一つずつページやファイルを処理していっても同じことかもしれません。したがって、読書にも言えると思いますが、あれこれと買い求めても目を通さなければ十分に活用しているとは言えませんし、せいぜいその本の装丁や目次を眺めた感想を書いて読んだフリができるていどの、つまらない利用価値しかなくなるでしょう。実際、ビジネス書のように通俗的な出版物の多くは、そのように「利用」されたり「処理」されているだけのように思えるので、僕は別のサイトでビジネスや経済にかかわる本格的な書評を書こうと思い立ったわけです。『ブルーオーシャン戦略』を真面目に読んだ人は、どれほどいるのでしょうか。著者が第一章の冒頭で紹介している、世界中で数多くの人々がサービスを楽しんでいる企業を覚えている人は、どれくらいいるのでしょうか(答え:シルク・ドゥ・ソレイユ)。しかし、僕が見受けるところでは、実際には殆どの人が読んでおらず、読んだとしても目を通したというていどのものであって、批判的・分析的に読んですらいないどころか、内容も覚えてもいないと思います。そんなことを何千年と繰り返していても、恐らく人類にとって何の価値もありません。将来において何らかの差が集団規模で生じる可能性はありますが、社会科学的に有意な違いのある結果が出るとは思えず、せいぜい誤差ていどのものだと思えます。

他方で、ウェブページを見つけた時に自分のストレージへ保存することには、それをリソースとして適正に利用するという目的だけではなく、資料として保全するという目的もあります。ウェブページの多くは、個人が公開するものであれ、あるいは企業や行政組織が公開するものであれ、恣意的に書き替えられたリ(もちろん修正にもなりえますが)サーバから削除されます。したがって、URI を学術活動の典拠表記として安定的に使おうとすれば、ISO にもなっている DOI (Digital Object Identifier) を利用するか、国内の図書について採用されている表記や収録サービスを利用するしかないでしょう。しかし、そうしたサービスは主に公的な学術団体をサポートするものなので、アマチュアが書いたウェブページや、プロパーであってもプライベートに書いたブログ記事などは対象外であり、閲覧している個々人が保存しない限りは急に消失すると取り返しがつかなくなります(書いた当人ですら下書きを自分のパソコンに残しているとは限らず、いわゆる「オン書き」のブログ記事はブログ・ホスティング・サービスが機器の障害などでデータを失うと復旧が困難となります)。

III (2017-10-17)

読書法について」というエントリーを『学者たちを駁して 人文書中心の読書感想文』というブログで見つけたので一読しました。一定の蔵書を抱えていて電子化を採用した方の一例です。

僕も、かつては1999年頃に自分のパソコンを初めて買ったときは、論文や単行本を PDF にスキャンして貯めていけば楽になると思いました。しかし当時は、OCR ソフトの性能、スキャンデバイスの性能、そしてパソコンの記録容量といった全ての点で、蔵書あるいは大学からコピーしてきた論文を電子化するというのは、まず技術的に困難であり、次に大容量の外部記憶装置が高すぎるという経済的な困難があり、そして記録メディアとしての CD-R も実は数年ほど経過すると読めなくなるものが多いというセキュリティ上の困難があって、電子化という措置そのものがハイリスクだという結論になりました。それ以降、どんどんストレージの値段は下がってゆき、記録メディアの保存性能も上がってきて(ありていに言えば、僕が生きているあいだだけ読み取れたらよく、何百年ももつ必要はないです)、更に OCR の性能も向上してきています。したがって、上記のエントリーのように、本を買ってきたら即座に裁断して「自炊」してしまうのは、書物の物質としての効用を無視すれば、非常に合理的で効率の良いやり方だと言えます。この点は、電子化に取り組んでいない僕も認めたいところです。

ただし電子化には電子化したなりの新しいリスクというものがあります。情報を集積し過ぎることにより、Blu-ray 一枚に何千冊ものデータが貯め込める一方で、その一枚を何らかの原因で破損すれば何千冊ものデータをいっぺんに失うこととなります。従って、このようなデータは物理的に確実なコピー(複製そのものに失敗する可能性もある)を幾つか作成して、或る人は遠方の実家へ帰省したときにわざとメディア保管用のケースごと預かってもらったりするようです。更に、最近ではクラウド・ストレージ・サービスを利用して、データをそのまま複数のサービスへアップロードする人も多いと思います。

他のリスクとして、電子化した書籍や論文のデータはあくまでもデータに過ぎないので、それを「読む」ためには一定の規格なりソフトウェアに依存しなくてはなりません。書籍をスキャンしたときに、電子化を目的とする方の多くは JPEG ファイルとして画像にするよりも、テキストを検索できるように PDF などの文書フォーマットを選ぶと思いますが、PDF という規格が永続する保証はありませんし、PDF を読み書きできるソフトウェアや、そういうソフトウェアが動作するための OS やパソコンの規格など、データを「読む」文書として扱うためだけであろうと多くの依存関係を維持しなくてはならず、そしてその依存関係はだいたいにおいて僕たち一般ユーザがどうにもならない事情で簡単に他のものへ替わったり、ときには簡単に提供や開発が中止されたりします。いちおう、同じ規格のバージョンアップであれば、かなりの年数に渡って後方互換性というものは保証されることが多いですし、異なる規格に流行や業界の力関係が移っても、コンバータや読み取りだけに対応したツールなどを開発し続ける奇特な方がいたりします。ただ、自分自身が最後の最後はそういう「奇特な方」になれると自信がある人などそうはいないでしょうから、電子化したデータがどれくらい利用し続けられるのかという心配はあります。

それから本稿は読書の方針について書いているので、電子化した書籍を読む場合のリスクについて追加すると、上記のブログ記事でも述べられているように、電子化したデータを表示するソフトウェアが「しおり機能」や「マーカー機能」をもつことはよくありますが、場合によっては正しく動かないこともありますし、アップデートに時間がかかることもあれば、データが何らかの原因で失われることもあります。そして、そもそもそのソフトウェアの開発が終わってしまうこともあります。ネットワークとは独立に、インストールしたマシンだけで使うなら、使えている限りは特にアップデートしなくてもいいかもしれませんし、ソフトウェアの開発が終了しても動くうちは使えます。しかし、それも物理的なデバイスが動き続ければという別の条件があってのことです。

というわけで、紙の書籍は確かに何冊も持ち歩けないですし、検索も遅くて時間がかかります。いちどマーカーを引くと(最近は擦ると消えるものもありますが、あれは見えなくしているだけであって、条件が揃えば再び色が出てきます)訂正して消すことはできません。しかし、データや本を中心にして物事を考えるのではなく、学術研究に従事する者としてどう行動するのが合理的であり、また学術としても正当であるかという本旨から考えれば、毎日のように大量の本を読まされるアメリカの大学院生ですら、せいぜい一日に読めるのは数冊でしょう。しかも、そのような読書は、どちらかと言えば僕が常々「情報処理」と揶揄している詰め込み記憶にすぎず、法学部の学生や医学部の学生のように、判例や部位の学名を記憶すること自体に価値がある勉強ならともかく、量子物理や哲学のように記憶量がものをいうわけでもない分野では、パソコンに 50,000 冊ぶんのデータが入っていると言っても、それを仮に全て暗記しているのではないかと思えるような人ですら、物理学者・哲学者として凡庸であるどころか、そのような記憶に頼った概念操作が学問だと誤解しているという点で有害と言い得る場合もあります。

そして効率という点についても、上記の記事ではブックマークのデータを一覧にして、

といった箇条書きから「読書体験のさらなる質的向上に役立てよう」という趣旨が紹介されているのですが、果たしてこのような、『超訳ニーチェ』のような断片集どころか片言隻句の羅列で何が向上するのかはよく分かりません。寧ろ、このような片言隻句を結びつけるための「なぜこれらの語句が重要なのか」という最も重要な知見と言うべきものは、この「シャンピン」さんという人物にこそあるのであって、それがこのような語句の羅列に反映されているとしても、「記録」しているとまでは言えません。なぜなら、この片言隻句の羅列でこの人物が思い描いているストーリーなり論点なり脈絡が他人に正確に伝達できるとは到底思えないからです。他人に伝達できないということは、簡単に言えば数年後の自分自身にも伝達できない(つまり思い出せなくなる)という可能性があるので、このようなメモのようなものは即座に何らかの内容を(もちろん言語の本質から言って完全に他人へ伝えることは不可能かもしれないとは言え)伝達する意図をもった文章にまとめてしまう方が適切だと思います。このように、僕は自宅の蔵書を電子化しているわけではありませんし、その予定もありませんが、それは「手で覚え、肉体化され」ることで得られるといったセンチメンタルな何かを重視して技術アレルギーのようなものを言いたいがためではありません。

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