2018年02月07日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-07

Linuxに関して言えば、分析ツールはもちろん、ランダムな入力を行ってソフトにエラーを起こさせることで脆弱性などのバグをあぶりだす「fuzz teting」と呼ばれる機能が搭載されていることを挙げて次のように述べています。「完璧なセキュリティにはたどり着けないかもしれませんが、Linuxのデフォルトモデルを開発者は、とてもうまくやっています。明らかにLinuxは改善されて続けてい ます。」と述べ、Linux開発の現状について開発者たちの貢献ぶりに満足していることを述べました。 [2017-09-13]

Linuxの生みの親 Linus Torvalds リーナス・トーバルズの素晴らしい人間性

上記の引用と比べてもらえばすぐに分かると思うが、下記のような文章もある。「ライナス+セキュリティ」のようなキーワードで検索すればすぐにどちらも見つかるだろう(というか、もともとは、ライナスがセキュリティ技術者にどうしてあんなに反感をもっているのかという理由を調べていて見つけたページなのだが)。

「Linuxに関して言えば、分析ツールだけでなくランダムな入力を行ってソフトにエラーを起こさせることで脆弱性などのバグをあぶりだす『fuzz teting』と呼ばれる機能が搭載されていることを挙げて、『完璧なセキュリティにはたどり着けないかもしれませんが、Linuxのデフォルトモデルを開発する人たちは、とてもうまくやっていると思います。明らかな改善が生み出され続けています』と述べ、Linux開発の現状について開発者たちの貢献ぶりに満足していることを明らかにしました。」[2017-09-12]

上記の引用は Gigazine から(https://gigazine.net/news/20170912-linus-want-hacker-help-linux/)。

最初の引用は「川島和正」と仰る人物の記事で、文体からは、いかにも地方の高齢者が老後の小遣い稼ぎとして情報商材やアフィリエイトで食って行こうという魂胆が見え見えなのだが、しかし文体のテンプレ度合いからすると、そういうペルソナを演じている豊島区あたりのバイト小僧という可能性もある。それなりに微笑ましい限りではあるが、やはりこういうことをやる人がいなくならないのは、どれほど技術や工学的な知見、あるいは高度な機器が発達したり普及しても、一定の割合でリテラシのない人というものがいることを暗示している。それもそのはずで、僕の両親にしてもビデオデッキやファクシミリ電話すらまともに扱えない(当家は1980年代の中ごろから VHS のビデオデッキを買っているが、扱えるのはいまだに僕だけだ)とか、あるいは自社で20代の人々が Windows のコントロールパネルや macOS の環境設定すら扱えないのを見ていても分かる。組織の人間としては、いやしくも IT 企業の社員を名乗る以上は一定のリテラシを求めたいところだが、やはり限界というものはある。それは、本人の意欲や関心がないという理由もあるにはあるが、人はそれぞれ何らかにおいて適応が難しいものがあるのだろう。簡単に言えば「得手不得手」と言える。もちろん、だからといって無能な社員を放置するのは企業にとって自殺行為なので、あからさまな採用の失敗事例はなんとか対処するべきではある。しかし、やはり人というものは本質的に有限な存在であるため、一定の限度は必要だ。情報工学・ネットワーク通信・ハードウェア・プログラミング・システム設計・セキュリティ・個人情報保護マネジメントなどについて、僕と同じレベルに達していない人間を当社から追い出すと、当社には僕しか残らない。

そういや何年か前に digital divide について調べていて、どこかの大学の教員が書いた抜き刷りのような論文をアマゾンで買うほど資料を集めていたのだが、知らない間に全く関心を失ってしまったのも、似たような経緯があったからだ。世の中には、本人に動機や関心が単にないという色々な事情もあるとは思うし、ラッダイトのような思想ゆえだとは限らないのだが、技術や工業製品の取り扱いに適応できない人々というのが一定の割合でいる。もちろん、これを単純に「文系」といった(一種の)差別用語に回収する必要はなくて、自然科学の学者ですらコンピュータを全く扱えない人もいる。適応という意味では、そのインターフェイスへの習熟も含めてよいだろうから、ビル・ゲイツがタッチ・タイピングすらできなかったという事実も含めてよいだろう。しかるに、これは「完全な適応不全」といったものではなく、工業製品のこれは使えるがあれはだめとか、この工業製品のこの機能は使えるがあの機能は使えないとか、人によって色々な状況が考えられる。僕にしても、タッチ・タイピングはできるが、ホイール・マウスは親指用の機器だろうと人差し指用の機器だろうとうまく扱えない。したがって、digital divide などと総括してしまっては、この概念自体が人を大きく二つの階層へと乱暴に分割して考えさせてしまうことになる。よって、こういう概念を使った社会学などのアプローチにはかなり予断が多く、支持できないと結論したはずである。

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