2018年01月09日22時34分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-09 22:34:23

あれいつも聞いてて意味分からんのだけど、別姓にすると家族の絆が壊れるとか、なんで他人の家族のことを勝手に断定できるのか。あるいは特定の家族についてでなくても、「家庭像が崩壊する」とか「日本の伝統が衰退する」などと語る見識があるのって思うんだけど。別姓でやる人たちは、自分達なりのやり方で人間関係(「家庭」ですらなくてもいい)構築して維持するということにコミットしてるわけで、もちろん個別の事例では失敗もあるだろう。それゆえ、心優しいオルタナ右翼とかネトウヨはパターナリスティックに「それでは駄目だ。どれどれ、我々が正しい方向へ導いてやろう」というつもりなのだろうか。

もちろん、昔から右だろうと左だろうと凡人の思想とか発言なんてものは、しょせん身の程を弁えない傲慢さが唯一の取り柄みたいなものだ。そういう(たいていは愚かでしかないが)ラディカリズムや支離滅裂さを強引にでも押し進める動機やパッションによって、ものごとが変わる(もちろん、たいていはロクでもない方向へ)という歴史があった。彼らは凡庸で無能であるがゆえに、そういうパッションとか腕力とか性的なアピールとか、あれこれの特性を動員して思想的な拙劣さを覆い隠したり正当化したり弁解するための(もちろん概念としては張りぼてとしか言いようがない)仕組みを打ち立てる。そして、そういう仕組みが受け入れられないと、かつての有名文学者のように立て篭もり事件を起こして自殺するといった、実はどうでもいいことをやって悦に入るというわけだ。本当に、この三島由紀夫の事件なんてものは、ただ単に当人達の傲慢さが当時の人々へ印象付けられたにすぎず、思想としては何のインパクトも残していないんだよ。彼らに影響を受けたという平岡正明さんとかは、もちろんそれなりの実績は残しているとは思うけど、しょせん世界史・人類史の視野に立つと社会科学的なスケールですら誤差ほどの影響も与えられない。こう言ってよければ、彼らとの付き合いがあった都内の出版・教育業界の中で神話化されているだけの人々にすぎない。

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