Scribble at 2024-04-20 18:35:26 Last modified: 2024-04-20 18:50:51

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若林幹夫『増補 地図の想像力』(河出文庫、2009)

「理論編」と紹介されている第1章の途中まで読んでみたが、僕自身は読み進める意義を感じなかったので、読了した書籍のリストには追加せずにここだけでご紹介しておく。とは言っても、評価に値しないと言いたいわけではなく、いわゆる記号論に類する知識がない方には勧められる。逆に言えば、1960年代以降のフランス思想(を取り上げた通俗的な思想関連の本)に親しんでいる方々には、あまり値打ちのない本だろうと思う。内容の構成の仕方から言っても、学部レベルの副読本みたいに書かれているし、水準としても教養課程レベルだと思うからだ。ましてや高校時代にフーコーやデリダを読んでいたような僕らには、この手の、こう言っては気の毒だが底の浅い記号論的な分析というのは、もうお腹いっぱいである。

僕は、一次的な分析としてなら記号論のアプローチに何の異議もない。しかし、こうした著作物を半世紀近くも読んできて、いまだに強く感じるのは、何事かが現象であるとか記号であるとかテクストであるといって、「科学的」だとか「客観的」という指標、それから「歴史的」だとか「主観的」という指標を区別する、確たる基準や厳密な根拠がないと指摘するところで大半の著作が止まってしまうことにある。そして、この手の指摘をすることが成果であるかのように、それこそ「名前を付けて回る仕事」としての文芸批評や社会学が日本では横行しているわけである。

全てはテクストであり記号である・・・だからなんなんだよ。

いまや主観と客観の対比それじたいが、どちらも認知科学のスキームに回収されてしまうか、逆に文芸作品の記号論的な言葉遊びに回収されてしまうという二極化に収斂しつつあるという、別次元の対比が生じているのは、いわゆる転生モノや VR 系のラノベを読んでいる高校生でも実感していることだろう。いまどき「地図は客観的な情報の記録や記述ではない」などと大発見のように言う事じたいが、非常に恥ずかしいことなのだ。そもそも、Google Maps に表示されるバカみたいな広告を眺めている昨今のわれわれにとって、地図が客観的な情報の媒体だなんていう説明は、記号論なんてものを持ち出す必要など全くなくても共感できないし、その開発・運営においても間違いとすら言える。僕らがふだん使っている地図は、もはや生まれたときからそんなものではなくなっているのである。

よって、実体験としても、それから思想の問題としても、既に記号論的なイージーとしか言いようがない表面的で初等的な分析や指摘など笑止という他になく、地図アプリを使っている小学生にとってすら、既に何年も前から問題は次のステージへ、つまり地図を提供する側が表現したいものを与えられている状況でどう対応するかとか、地図というものの UX だけでは不十分であるという話に移行しているのだ。このような一般人ですら生活の中で感じているポイントに先行するどころか、フォローアップできる水準に到達しているかどうかすら怪しいからこそ、日本の社会学や地理学というのは、単なる文芸批評と同じく、読み物扱いされているのだ。

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