Scribble at 2024-02-19 18:28:13 Last modified: 2024-02-20 07:43:23

古代に朝鮮半島から移ってきた人々の多くは、現在の歴史学や歴史教科書では「渡来人」と表記している。これは、前世紀だと「帰化人」と書かれていたのだが、「帰化」という言葉には王権に従うといった意味合いがあって、どうも移ってきた人々の意図や動機や事情とは必ずしも合っていない(多くの人々は、朝鮮半島や中国での騒乱あるいは強制移住政策などから逃れてきた)。それに、もっと後の話になるが朝鮮を侵略し併合した際の「協和」といった傲慢かつ愚劣な思想を(これは、もちろん保守の人間としても言える。クズ右翼の妄想など保守思想とは関係ない)思い起こさせるとして、要するに PC という観点から準差別語のように見做されたわけであった。

これに対して、一部の歴史学者は、必ずしも反動的な人々とは限らず、やはり「帰化人」と表記するべきだと主張する。だが、その理由を簡単に言えば、たとえば『日本書紀』の「帰化」という言葉に対する古い読み方に「オノズカラマウク」があり、自分の意思でやってきた人という意味もあるのだから、左翼が喚いているような強制連行を暗示する意味合いはないというわけである。

しかし、僕はこのような反論は歴史学の議論として筋が悪いと思う。そもそも歴史学や考古学における学術用語というものは、或る時代の出来事や事象や様相をわれわれの観点や学術研究の成果としてどう表現するべきかという基準で選ぶべきであって、当時者が自分たちをどう呼んだり、あるいは他人から呼ばれていたかなどという基準で選んではいけないのである。したがって、或る集団が古代においてどう呼ばれていようと、そういう話とは別に考えなくてはいけない。そうでなければ、これを現代の議論に置き換えてみればよい。たいていのカルト教団やテロ組織は、自分たちを「神の僕」だの「正義の闘士」だのと言うであろう。だからといって、旧統一教会の信者を「正統なキリスト者」と呼んだり、トランプの支持者やネトウヨを「真理の探究者」と呼んだりだな(笑)、そういうのと同じ bullshit になってしまうわけだよ。

それからついでに書いておくが、この手の話題は単純な議論でしか物事を考えたり説明できない人々においては、たやすく過大評価したり過小評価しやすい。したがって、「日本人なんてそもそもいない、みんな朝鮮人だ」とか、「みんな帰化したのだから、日本人だ」とか、馬鹿みたいなことを言うやつがネットでも、いやそれどころか出版社から出てる書籍にまで書いてたりするわけだよ。で、多くの方々が想像しているのとは違って、考古学、あるいは古代学と呼ばれている分野は、古代史を扱っている軽率な人々とは違って、実際に確証をもって言えることなんて大してないのだと分かっていなければ堅実な業績を積み上げられないのである。それは、僕らがいま住んでいる現代に当てはめても同じことが言える。たとえば「東大阪市の町工場の実態」というフレーズで、恐らくはネジを作ってる零細工場のオヤジとか、あるいは何年か前の朝ドラに描かれていたような中小企業とかを思い浮かべるかもしれないが、それらは全て個々の事業であり個別の事実にすぎない。よって、それらをどれほど日本の社会学者みたいに分厚い本としてまとめようと、そんなもので「実態」なんてまとめられるわけがないのである。逆に、小熊英二氏や岸くんらのような社会学者が書く本は分厚すぎるがゆえに危険であるとすら言える。あれを読み切ったくらいのことで分かったつもりになる人が出てくる可能性が高いからだ。実際、彼らの書著の書評なんて、その手の「お腹いっぱい感想文」で占められている。そして、これだけ読んだのだから何程かのことは理解できたであろうという担保にされてしまうのである。読まないよりもマシだ? それを社会科学として論証できた人なんて、マックス・ウェーバーだろうとルーマンだろうと、この世に一人もいない。

ともあれ、現代の事象についてすら断片的なことしかわからないのである。これだけ社会学者がつまらないルポみたいな本を山のように書いていてすら、彼らがせっせと調べている在日朝鮮人や同和地区の人々や AV 女優やヤクザや西成の路上で寝てるおっちゃんらのことは殆ど分からない。それに、そういう人々は転職したり転居したり海外へ移住して(あるいは死んだりするし)、集団を構成する人員がどんどん入れ替わる可能性があるため、特定の人物だけに焦点を当てていては、いつまでたっても三流の芸能レポーターみたいなものしか書けない。それは、日本の社会学者が理論どころか実証においても、巨大な本を出版したりワイドショーで愚にもつかない意見を口走る以外に、殆ど目立った業績を上げていない事実でわかるであろう。であれば、圧倒的に情報が少ない1000年以上も前のことなんて、なにほどのことがわかろうか。古代史の学術研究書ですら、そこに書いてあることの大半は、ただの推測にすぎないのである。

同じ理由から、ここ最近の考古学や古代学の著作物に見受ける、現代語(つまり現代の観点でそうまとめられるというだけの概念)の迂闊な適用についても、逆にアナクロニズムという批評もできる。たとえば、最もよく見かけるのは、当時の政権や地元の権力者が関わっていた何らかの大掛かりな施設や人員の使役を「プロジェクト」などと表現している事例だ。もちろん、当事者にはそういう言葉など使いようもなかったわけであるから、そういう言葉でもって言い表すのは現代のわれわれの観点からだけである。しかし、そこに認知考古学や社会心理学などの観点から言って、正確に「プロジェクト」と表現するだけの条件が当時の人々の理解において(どれほど未成熟で無自覚であろうと)備わっていたかどうか、そういう論証は殆どないまま、そう表現するとわかりやすいというだけの通俗的な動機で使われてしまっているように思う。しかし、誰でも想像できるように、ひとたび言葉として固定されてしまうと、概念としても固定されてしまい、当時の権力者に「プロジェクト・マネジメント」の発想があったかのような錯覚を読み手に与えることになる。すると、「工期」という概念も当たり前のように設定されてしまい、工期に間に合わせるために何人を追加で補充するとか、あるいは働く時間を増やすとか、そういった勝手な想像を引き起こしてしまいやすい。すると、工期などという概念はそもそも「暦」という知識がなければ成立しないので、当時の日本に暦を運用したり管理する知識や技能があった(はずだ)という別の重大な妄想を引き起こすことになる(『日本書紀』では6世紀の中頃に暦博士が来日したという記述がある)。こうして、たいていの素人や三流のプロパーが書くものは、妄想を正当化するために妄想を積み重ねるようなことをやってしまうのだ。

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