Scribble at 2024-01-08 21:43:05 Last modified: 2024-01-08 22:01:40

これは世界中で似たような状況にあるのだが、これだけ広範な分野と用途に利用されてきていて規格としても長い歴史をもっている C 言語のスタンダードな情報サイトがない。もちろん、C 言語は Java や Go のように特定企業が知財を専有する技術ではないため、逆に言えば特定企業が知財を専有している場合はマーケティング上の動機や目的があるのだから、丁寧な情報サイトを運営している。Java しかり、C# しかりだ。しかし、他方でウェブにはオープン・ソースやフリー・ソフトウェアのトレンドもある。僕はこれを、たいていは何の業績もない無能で軽率なロートル・プログラマたちのセンチメンタリズムに同調して「UNIX文化」と呼ぶことには反対しているのだが(UNIX は昔も今も特定団体がお墨付きを与えてきた仕様であり、フリーというコンセプトを体現するなら、どう考えても「UNIX」よりも「GNU」の方が妥当であろう)、いずれにしてもクローズドで商業主義的な発想とは異なるトレンドがあることに間違いはない。ただ、そういう個人や団体の有志が特定の言語について情報をまとめたり共有するサイトを運営するにしても、当サイトでは10年以上に渡って指摘しているように、その多くは出版社とか特定企業との関係から自由ではない。つまり、特定企業の CTO や「スター」エンジニアがヘゲモニーを掌握していたりする、結局は下心見え見えのプロモーション・サイトに堕する場合も多い(なんだかんだ言っても mixi の人材スカウトやプロモーションの舞台でしかなかった、いまは無き日本の Perl の団体などは典型と言っていい)し、フリーランサーや技術ライターが技術系の出版社から当該技術の解説書や翻訳を出版して、コンサルなどへ「クラス・チェンジ」するための道具でしかないという事例もある。

要するに、特定企業が関わっていようといまいと最後の最後は金や地位という「出口戦略」が成立しないと、この国では知識や技術の集約や共有や継承なんていう目的に手を貸そうなんて人は殆どいないのだ。こうした、日本だけではないが多くの国で起きている事情を凌駕する実績を出しているからこそ、僕らは英語でしか技術を学ぼうとしないし、有能な人材に限って英語でしか成果を公表しないようになるのである(もちろん、欧米のそういうトレンドの背景にキリスト教的なメンタリティや風習があることも指摘して良いが、社会学者のように「指摘できる」からといって、それが何だというのか。まさか、僕がキリスト教を布教しようとしているなどと思う人はいるまい)。これでは、この国は最初から欧米だけを相手にして日本語のリソースや情報など完全に無視する人々か、もしくは国内需要だけに頼るゼネコンの駒や地方自治体のインチキ出入り業者だけになってしまう。そのような状況で、多くの高校生が『情報I』などの素養を身に着けて IT やネット業界で働くことを志したところで、せいぜいその大半はゼネコンの歯車になって碌でもないエンタープライズ・ソフトウェアを扱うことになるか、あるいはデタラメな都内のネット・ベンチャーの一員として、港区や練馬区で世のため人の為を公言する詐欺師に成り下がるだけだ。

人が自由に、自分の動機や目的に応じて、自分の力でなるべく何かを成し遂げるには、やはりその条件が満たされていなくてはいけない。その条件とは、(1) 可能な限り多くの事項に渡る知識や抽象的な理論であり、(2) その知識を実際に使うための初期条件や制約条件である具体的な情報であり、(3) そしていま現に利用可能な道具や技術であろう。

少なくとも高校生が卒業時に習得していると期待されている英検準2級ていどの力があれば、すでに (1) については十分に満たされている。もちろん、書籍として手に入れるならお金はかかるが、都道府県の管轄で運営されている図書館なら、沖縄だろうと島根だろうと、おおよそ十分なだけの書籍はサポートされていると思う。そして、公言するのは憚られるが、英語の書籍については Internet Archive をはじめとするサイトで多くの書籍をダウンロードできる。僕がこれまでに見てきた限りでは、海賊サイトはともかく、arXiv なども含めて公に手に入るリソースを使えば、アメリカのアイビー・リーグで学んでいる学生と同じだけの知識は手に入る。要するに、問題は「やるのか、やらないのか」という話にすぎないのである。

そして、僕がここで議論しているのは (2) だ。これは、(3) の具体的な道具や技術を使うための手がかりや足がかりと言うべき情報であり、(1) によって何をすればいいかはアイデアやコンセプトとして分かっていても、具体的に何をどうすればいいのか、そしてこうすればいいと言われている多くの情報から何を自分にとって最適な選択だと決めたらいいのかというヒントである。これは、確かに大学のコンピュータ・サイエンス関連の学科へ進学したり、あるいは専門学校へ入ったら多くの人達が実際に学ぶことかもしれないが、IT やネット・サービスのようなものは、大学の専門学科や専門学校を出た人だけがアイデアを思いついたり起業するものでもない。そういう、自己目的的な事業(いまで言えば量子コンピューティングなど)だけが IT やネットワークの活用方法ではないからだ。

そして、これは僕が科学哲学の研究者としても哲学というものについて考えていることと同じである。はっきり言って、大学の哲学科で勉強したり、あるいはネットで思想おたくを自称しているような連中なんて、国公立大学の博士課程にまで進んだレベルの僕らから見れば、本来なら哲学なんて勉強する必要のない人々だ。自分には哲学が「向いている」とか、哲学が「面白そうだ」などという理由で哲学に関わっているような人々は、つまるところ自分が本当にやるべきことや考えるべきことを考えずに、まさしく哲学的に厳密かつ丁寧に考える訓練なしに、よく売れている「思想書」だとか、イージーな通俗書や古典の解説本などで語られている「格好いい」議論を手にしてしまうことで、なんだか奥深そうな専門用語に当てられて「これはすごい!」などと声を上げている観光客のようなものでしかない。だが、哲学するべき人、あるいは僕のように哲学せざるを得ない人というのは、大学の哲学科で学んだり、哲学や思想に関心があるとこれみよがしにネットで語るような人々であるとは限らないのだ。そして、僕はできれば自分が PHILSCI.INFO で公開している記事や、あるいはこれから公刊する予定の科学哲学のテキストも、できればそういう人々に読んでもらいたいと願っている。数学の勉強もせずに数式をもてあそぶ「理系の真似事」ができるとか、あるいは学部レベルの数学や物理も勉強しないで「科学」について何か偉そうに語れるようになるなどという錯覚やスケベ根性だけで、科学哲学という「文系」の学問に興味を持つなどという連中が、この国にはやまのようにいて、そういうコンプレックスを持っている人々を相手に、この国の出版業者というのはクズみたいな(科学)哲学の本をせっせと出版している。僕は、これは自己欺瞞であるし、自己破壊的なことだと思う。

とは言っても、僕が C 言語の情報サイトを立ち上げるなんて話をしたいわけではない。FORTH については情報サイトを作りたい意欲はあるが、まだそんなことができるほど習得も進んでいないし、そもそも実績がないからだ。ソフトウェア・エンジニアリングは、実績のない者が語ることは、決して許されない。プログラミングやシステム開発は、丘訓練では必要条件すら満足に身につかないのである。

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