Scribble at 2024-02-07 18:34:36 Last modified: 2024-02-09 14:49:49

PHILSCI.INFO の方で考古学の話ばかりしているのも変なので、こちらに引き取って続けることにしよう。とにかく、先に例として取り上げた殯という風習の話ももちろんだが、古墳という大規模な墓の造営ということを、もう少し現代的な観点、つまりプロジェクトであるとか職人仕事として捉え直してみると、意外に検討したり考察している人が少ないように思える話題が色々と出てくる。

たとえば、僕が今年中にサイトの公開を予定している東大阪市の山畑古墳群という群集墳は、既に住宅や施設の建設とか田畑の開墾などという事情で破壊されてしまったと思われる古墳も含めて、100基に近い数の墓が造営されたと想像されている。具体的に追加でどのていどあるかは分からないにしても、とにかく破壊された古墳の痕跡がこれからも発掘される可能性はあるのだから、いま数えられる数よりも多かったんじゃないかという想定くらいはしてもいいとは思う。ということで、いま見つかっているのが70基弱であるため、70という数をひとまず決めておこう(*)。

そして、山畑古墳群として確認されている約70基の古墳は、おおよそ六世紀の中頃から七世紀の初頭までのあいだに造営されたと推定されている。つまり、それをうまい具合に約70年間と仮定すれば、雑に見積もって毎年のように1基ずつ古墳を造営していたという想定ができるわけだ。これだけ頻繁に仕事をしていれば、それこそ町内会の盆踊りを教えてくれるじいさんのように、何十回と同じことを経験している人々がいて、後の世代に手順とかしきたりとかを教えてくれる。よって、プロジェクトに加わった各人が全てを詳しく経験したり覚えていなくても、それぞれが覚えていることや身につけたことや経験したことを持ち寄って、おおむね致命的な錯誤のないコンテンツを後の世代へ共有ないし継承することになるのだろう。

でも、もしこの想定が正しくないとすればどうだろうか。当時の日本は朝鮮半島に出兵して高句麗や新羅を相手に戦っていた時期でもあるため、ひょっとすると地元の男性がいちどに5人くらい亡くなって古墳を造営したかもしれない。そうすると、5基ずつ造営したとなれば、おおよそ15年ごとに造営したことになるので、これではいくらなんでも古墳を造営する詳しい手順やノウハウなんて覚えている人は少ないだろう。それに、そういう経験や記憶がある人だって戦に駆り出されて亡くなってしまう可能性だってあるはずだ。

となると、一定の品質で作業するだけの情報なり技能を維持するためには、古墳なり大規模な施設を造営・施工するだけの職人の集団がいないといけないという理屈が出てくる。そして、いくらなんでも古墳を幾つか造営するだけで15年くらい食べていけるほどのギャラが出るかと言えば、それは難しい。となると、食っていくためには色々なところで古墳の造営を頼まれては、そこで一定の期間を過ごしながら古墳造営のプロジェクトに従事するという暮らし方となろう。こんなことを色々と考えると、いまどういう情報が不足していて、どういう考察が足りていなかったり、あるいは何の根拠もなく勝手な想定で当時の様子が説明されているかが分かる。

* 山畑古墳群に属すると推定できる古墳の数が、見つかっているよりもたくさんあったと推測できる根拠を Gemini に聞いてみたところ、(1) 江戸時代の地誌である「摂津国之図」には、山畑古墳群周辺に100基以上の古墳が描かれています、(2) 近年行われた発掘調査では、山畑古墳群の周辺から、これまでに確認されていなかった古墳が多数発見されています、(3) レーダー探査などの地形調査によって、山畑古墳群の周辺には、地中に埋没した古墳が多数存在することが確認されています、という三つの理由を示してもらった。個別に検証する必要はあるが、これをちゃんと書いている文献やサイトは殆どないので、やはり僕が公開するサイトでは丁寧に調べた上で言及したい。それにしても、特に (3) のレーダー探査についいては、東大阪市教育委員会と大阪府立近つ飛鳥博物館が異なる方法で実施したという根拠が示されていて、その報告書がオンラインにないので、それぞれの組織に確認したとまで回答してるんだけど、問い合わせたって Google の社員が? なんだか胡散臭いなぁ。でも調べてみる価値はあるんだよね。

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