Scribble at 2024-04-21 13:51:17 Last modified: unmodified

色々な言い方をしているので、まとまった論説を書く必要もあろうかと思うのだが、一つだけ短く追加しておく。僕が言っている「保守」というのは、自分たち自身で何を守ったり受け継いでゆくかを決める責任を負うということでもある。よって、昔からやってるからというだけの理由で自分たちもやるなんてのは、ただの思考停止であって、昆虫と同じだ。人のやることではない。

僕は高校時代に自治体執行部の副会長をやっていたことがある。その時分も、立候補するときの公約として「学校行事の是非を見直す」と掲げて当選した。要するに、伝統行事だからやるなんて理屈には、そもそも僕の母校の尊ぶ生徒の自主性という精神から言っても説得力がない。やるならやるで、どうしてやるのかを自分たちで改めて考えて決めるべきなのであって、昔からやってるので今年もやろうなんてのは自主性がぜんぜんない。そういう惰性でやるような行事なら、自分たちで考えたうえで「しない」と判断して行事をしない方が本学の精神を表すし、ひとまず本学の精神を良しとする基準で言えば「良い」と言える。

かようにして、僕は別に子供の頃から特に言っていることや考えていることは変わっていない。それが、状況やテーマや課題によっては、左翼に見えたり右翼に見えたりすることはあろうが、そんなことは原理原則や体系的な一貫性を優先し尊重している僕にとってはどうでもよい話である。政治的な利得のことでしか良し悪しを判断しない基準で眺めた右や左なんてレイブルは、実際のところ哲学者にとっては些事でしかないのだ。

すると、これまで書いてきたように日本なんていう些末な民族や地域の伝統なんてものに固執しないスケールでものを考えている、いわば哲学的保守と言えるわれわれにしてみれば、「日本の伝統」なんてものに、それだけで無条件の価値があるなんてぜんぜん思わない。したがって、それらにすべて価値がないと判断すれば、日本の伝統や文化なんて消滅しても人類にとって何のリスクもないという結論になる。仮に、なにかが存続するべきだと思うなら、それは伝統や文化や国土なんてものではなく、少なくとも僕ら自身という現にいま生きて生活している人間の方が優先するに決まっている。人がいなくなっても文化や言語が生き残ればいいなんていう理屈は、僕に言わせれば「ミーム教」というセンチメンタリズムにすぎない。文化や言語は、単に情報やデータとして保存されたらよいというものではないのだ。実際、仮に日本語の著作に出てくる単語を全てデータベースに保存したストレージが完成したとして、それで「日本語」を永久保存したと言えるかという話である。もちろん、僕らが話している言葉は、仮に語彙がそれらと同じで文法としても同じだったとしても、その文法と語彙からどのような表現を生み出すかは状況や人によって変わるのであり、その膨大な選択肢の中から何が選ばれるかを、ただのデータベースや文法理論から推測したり記述できるわけではない。こういう言語の哲学というレベルでの結論から言っても、重要なのは明らかに人なのであり、言語というテーマ一つをとっても、守るべきはデータベースなんかじゃなくて話者の方なのだ。

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