Scribble at 2021-07-26 11:58:04 Last modified: 2021-07-29 12:57:01

高校時代に入っていた(6つくらいのクラブに入っていたが)「文藝部」(「芸」は旧字体)が発行するプリントだったか、あるいはコピーで作っていた同人誌だったかで、日本のマスコミは「拡大象徴主義」に毒されていると批評したことがある。当時は「センセーショナリズム」といった言葉も知らなかったし、もちろんそんなの知らなくてもいいわけだが、勝手に物事を言い表す言葉を提案して批評していたことがあった。それが言わんとしていたのは、たとえば「ベトちゃん、ドクちゃん」という象徴を取り上げて手術を受けるの幾らの募金が集まったのと囃し立てることだけに紙面を割いて、ベトナム戦争の解説だとか枯葉剤の効果だとか、あるいはベトナムの医療体制や福祉予算については殆ど報じないまま、目立つ奇形児の話ばかりしているのは欺瞞的であるという非難である。枯葉剤の影響で身体に何らかの障害をもった子供は、他にもたくさんいたと思う。報道された子供二人を助けることだけに注目したところで、ベトナムが抱えている医療の課題を解決しない限りは、ニュース・バリューのある奇形児を助けよと騒ぎ立てるばかりであって、根本的なところで何も解決できない。こういう事案は、Twitter で飼い犬が死んだところを投稿している人に数多くの人たちがお悔やみをリプライしている様子を眺めていると、あらためて同じような批評を加えたくなる。

個々にお悔やみを述べている人たちに悪意はないが、その無頓着は、社会科学的なスケールで言えば有害である。

目の前に並べられたメニューや報道記事やツイートには反応しても、自ら何が起きているかを知ろうとしない。それは〈情報リテラシー的な赤ん坊〉でしかないからだ。もちろん、世界中で起きていることを調べ上げよとは言わない。そんなことは凡人には不可能であり、やろうともしないはずだ。そうではなく、目の前に並べられた記事に反応するしかないとしても、そこから何を想像できるかという普段からのスタンスについて〈情報リテラシー的な大人〉であるよう望みたい。つまり、死ぬのは誰かがツイートする可愛い犬だけではないのであって、ガザ地区のパレスチナ人や、中東一帯のクルド人、中国のウイグル人、シリアやミャンマーや香港やアフリカ各国で政府と争っている人々、あるいは日本とかいう国の入管施設で役人に虐殺されている人々が、毎日のように亡くなっている。そして、亡くなるのは、そういう派手な〈苦境〉にある人たちだけではなく、それこそ秒単位で世界中のごくありふれた生き様の人々が病院で亡くなっている。こういう想像をするには、始めからリテラシーとしての生活習慣なり訓練が必要である。

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