Scribble at 2024-01-14 11:34:46 Last modified: 2024-01-14 19:57:29

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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(日米地位協定)及び関連情報

沖縄の普天間基地の移設という近頃の話題だけにとどまらず、およそ日米の安全保障や外交にかかわる話題として、この「日米地位協定」という合意文書は、もともと丁寧に調べたり扱われて議論されてもよいわけだが、少なくとも国際法学者でもなければ沖縄の住人でもない多くの人にとっては殆ど関心の外にあるものだ。もちろん報道番組で「日米地位協定」という言葉を見聞きしている人は多いけれど、さてこれが何なのかとググってみたりウィキペディアで調べる人なんて殆どいない。ましてや、上記のような外務省のページを見に行く人も殆どいない。そして、僕は特に外交とか日米地位協定について何か強い関心をもっているわけでもないのだが、たまたま暇潰しに外務省のサイトへアクセスしてみると色々なことが分かるので、些細なことだがご紹介しておきたい。

まず官僚組織というものは、個々の官僚にはエビやブロッコリの個体と同じていどのクソみたいな個性や違いがあるとは思うが、一般論として言えば、可能な限り国民から情報を隠したい、遠ざけたい、自分たちが本当は何をやっているのか知られたくないという、殆ど性癖と言って良いような体質なり習性がある。よって、彼らが発注してビジネス・アーキテクツや IIS などが制作に携わる官公庁のサイトというものは、おおむね anti-findability や anti-affordance や anti-accessibility を設計方針として制作されている。こんなサイトやコンテンツは、もちろんアメリカの行政機関のサイトであれば「違法」ですらあるわけだが、この国ではアクセシビリティやアフォーダンスというものを人権の一部として考えている人なんて、左翼にすら殆どいない。なんでかって? 左翼自身が、自分たちがバカだとバレたら困るので、ものごとを隠蔽する体質だからだよ。朝日新聞や TBS の不祥事とか報道倫理違反の事案、あるいはリベラルと目されている人々が大学行政や出版業界で何をやっているかを見れば分かることだ。

ともあれ、実際に外務省のサイトへアクセスすると、上記のようにウンザリさせられる。地位協定の条文が、1条ごとに分割された PDF ファイルとなっていて、しかも中には HTML のページが混ざっていて、しかも HTML のページへ進まないと存在が分からない PDF ファイルがあったりする。本来、こういうサイトの制作を受注できる地位や取引関係にあるウェブ制作プロダクションであれば、もっと情報設計として優れたデザインができるはずだし、そういう人材が(いかに落ちぶれたとは言えビジアキとかなら)いるだろう。それを敢えてやらないのだから、これは発注者である外務省の意向の表れであるとしか考えようがないわけである。

もちろん、先日のアーロン・スワーツの文書と同じく、こういう行政文書も著作権がないため(著作権法によって、行政文書や法令には著作権が最初からない)、当サイトで整理し直して HTML ファイルとして全文を一つのページに集約してもいい。また、この話題は沖縄だけに関わるわけではないが、沖縄県には「地位協定ポータルサイト」(https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/index.html)というものもあるので、これらも合わせて取り上げてもいいだろう。ただ、もしそういうページを作るのであれば、他の関連する話題についても調べたうえでなければ、おおよそ二つの点で誤解される恐れがあるため、仮に公開するとしても先の話になるとは思う。

誤解される第一点は、僕が自分で「保守」(思想家とまでは言っていない)であることを自認しているので、日米地位協定を取り上げるというと、脊髄反射的にマス・メディア的なおもちゃでしかない「反米保守」だと思われるからだ。はっきり言って、「反米保守」なんてものはマス・メディアという演劇の役名に過ぎないのであって、こういう雑な思想を哲学者であるわれわれが抱くなんてことはありえない。日米の関係だけでとる態度によって何かが解決したり理解できればいいなんていう、些末で矮小な観点でしか政治を考えたり語らないという時点で、哲学者がかかわるような話ではないからだ。僕は、そういう日本の評論家風情や自称思想家と同じ次元の人々と同列にされるのは困る。いや、僕自身の地位や名誉なんてどうだっていいが、僕の書いたり伝えている内容が、そういう暗愚な連中の書き散らしている「商品」と同列に受け取られるのが困る。

そしてもう一点は、特に沖縄と関わる内容だけを先に公表すると、もちろん日本に数多くいる沖縄(差別)が三度の飯よりも大好きな社会学者と同列に見做されてしまうからだ。僕は、事情が違えば(有能な)法社会学者になっていた可能性もあるわけだが、現在は古典的な業績を除いて社会学というアプローチに関心はない。正直、あと数十年もたてば文化人類学と社会心理学とミクロ経済学が駆逐してしまう分野だと思うし、後に残るのは果てしない散漫な記述に埋没するだけの、エッセイストやルポライター同然の人々だけだろうと思う。

[追記] この落書きを読んだ連れ合いから、最後の段落が岸政彦くんに対する当てつけではないのかという指摘を受けたので、一点だけ追記しておく。もちろん、沖縄という話題で食っている社会学者や物書きはたくさんいるし、エッセイやルポを書き散らして食っている社会学者もたくさんいて、必ずしも岸くんだけに当てつけで書いているわけではないが、当然のこととして彼も含まれるのは事実だ。そして、彼らが本来の研究や教育に携われる安定した身分を維持するためには、大学理事会や事務方などの期待に応えてマスコミに扱われるという、要するに広告塔となるしかないという日本の大学行政こそ、僕ら社会人なりアマチュアの研究者が批判するべきであって、個々のプロパーを冷笑したり DIS っても事態は改善できないという理屈も分かる。それゆえ、僕は文科省の役人も繰り返して話題にしているし、僕自身も潤沢な資金があれば(社会学はしらんけど)研究費や出版費用を補助する財団でも作って、自分が所属している日本科学哲学会に貢献する意欲はある。あるいは、科研費や大学の助成がないとできないような、たとえばオンライン・ジャーナルの運営だとかサーバの構築や運用、あるいはレクチャー動画のストリーミングだとか、会員制にした場合に決済サービスと連携させる開発費だとかを僕がサポートしてもいい。

でも、日本の学術研究なり高等教育をこのようにした責任は、まず第一に日本の社会科学者自身にもあるというのが僕の意見だ。特に、学生運動の時代にどさくさで大学教授になったようなクズ左翼が大学行政を掌握したまま数十年が経過した末に、色々なところで日本の大学は教育も研究も水準が停滞あるいは低下したというのが僕の見立てである。法学なんて、殆ど国際的なスケールでの業績なんてなくて、LEC の講師の方が優秀なんじゃないか。あるいは最高裁判所の判事になることだけが唯一で最高の目標になってしまっているのではないか。まったく、学術研究者として志の低い話である。

そして、そういう状況になっていて、司法試験の受験生を相手にしないといけないのだから研究している余裕がないといい、そういう状況を変えて学術研究と学問のまともな教育に専念するには(もちろん司法試験の指導をしてもいいとは思うが)、科研費のような面倒くさい事務を山のようにこなしたり、あるいはくずみたいな記事を色々な雑誌や自治体の広報誌に書かないといけないのだから、我々に責任を求められて困るという人もいるだろう。それも分かる。社会学でも、金と身分の心配さえなければ、ワイドショーでバカみたいなコメントを喋ったり、志の低いミーハーを相手にしたイベントなんかに参加せずに学術研究や教育に専念できるのに・・・それはそういう人もいるかもしれないが、全ての研究分野でそんなことになってるわけではないのだから、実際にはこんなの言い訳になってないと僕は思うね。科学哲学者は、いったいどのワイドショーに出ているのだろう。そして、出ていないから研究できないし、大学での身分が危ういのだろうか。では、吉本芸人が関西大学で科学哲学の客員教授になればどうか・・・あほかいな。そんなもん、関係あるわけないやろ。

ということである。出版社や、大学の重鎮たちなどとの人間関係で、仕方なくバカみたいな本を書きまくったり、色々なテレビ番組に出たり、文科省の役人を相手に何とか委員として喋ったり、本当にそんなことをしないと食べていけないのだろうか。そういう人がいるかもしれないのは事実だと思うが、そういう人の大半って、実はそういうことをしないと大学にいられないくらい、もともと業績がない人たちなんじゃないのという気もするんだよね。

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