Scribble at 2021-07-13 12:11:02 Last modified: 2021-07-13 12:33:18

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数日前に今年は初めて万願寺とうがらしをいただいた。残念ながら「当たり」は無い。出荷する方にしてみれば無い方がいいのだろうから、今だと何かのセンサーで選り分けて排除されているのかもしれないし、これまでも幾つかの特徴で選別はしていたようだ。加えて、少し調べてみたら、農林水産省農林水産技術会議事務局が公表している「新鮮でおいしい『ブランド・ニッポン』農産物提供のための総合研究」(2007年3月)によると、劣性遺伝子を交配して辛味の発現しない万願寺とうがらしを育成する実験なども行われているらしい。栽培の安定化に寄与する研究でもあろうが、或る意味でつまらん連中だ。

自然に起きることは、いや人工的なことでも結局は同じと言えるが、何であれ確率に支配される。一定の条件を越えなければ確たる結果に至らないという閾値がある場合も多く、A が起きたから必ず B が起きるなどという因果関係は寧ろ少ない(あるとしても、そうなる条件をあれこれと絞っているにすぎない)。それは、辛いとうがらしができることから癌を発病することに至るまで、僕らの身の回りにたくさんあり、人はそういう状況に身をおいて生きているという事実を正確かつ厳粛に受け止めなくてはいけない。これを正視したくないという心理は、もちろん古代から「アクラシア」として多くの思想家が話題としてきたわけだが、その最大かつ最強の成果が宗教だと言ってもいいのだろうし、世俗的な次元ではいわゆる「ゼロ・リスク信仰」とか「放射能ママ」という感情論なのだ。

多くの人が激辛のとうがらしを食べたくないと望んでいることは理解できる。寧ろ僕らのように「当たり」などと称して喜んでいる方が変わっているのは確かだろうし、何らかのリスキーな嗜好でもあろう。しかし、辛いとうがらしをゼロにすることへ躍起になって、それがおおむね成就したときに、たまたま起きるかもしれない例外的なとうがらしについて、われわれは農家に「責任」を求めたりする(べき)だろうか。Twitter などで他人に息を吐くような気軽さで「責任」などと書いているバカどもにとっては、鼻クソをほじるていどのことかもしれないが、リスクをゼロにする責任など人には存在しない。それこそ、そんなことは「神」にしかできない。なぜなら「神」も「ゼロ・リスク」も単なる観念にすぎないから、頭の中で勝手に妄想することでしか意味を為さないことを人が「責任」をもって実現することなど不可能なのである。激辛のとうがらしを食べて人が死ぬというのならともかく、辛いとうがらしだけにアレルギーをもつ人などいない状況で、こんな「リスク」をゼロにする工数や予算は、僕には浪費としか思えない。あまり大きな話として語りたくはないが、たまに酷く辛いとうがらしがあるというていどのことは、人として受け入れて生きるべきではないのか。

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