Scribble at 2024-04-03 19:47:25 Last modified: 2024-04-04 12:36:28

「椿井文書」といえば有名な偽書だと言われているが、脚色のある古文書、たとえば古事記などと比べて、作者にスケベ根性や悪意があるかどうかで判断するというのは、もちろん史料の取り扱い方として正しくない。そして、そもそも何かある出来事や事象を「完全に」「記述する」とはどういうことなのかについて見識を持つところから出発しなければ、これは復古主義者と左翼、あるいはネトウヨとリベラルの水掛け論にしかならないわけである。

およそ、出来事の完全な記述が不可能であるというところから始めると、即座に偽書であるかどうかの判断は確固たる基準がないと分かる。ここで、或る人物が時刻 ^^t^^ に或る地点 ^^p^^ から歩き始めて、時刻 ^^u^^ に別の或る地点 ^^q^^ まで到達するという単純な出来事を想定しよう。この様子を、仮に iPhone Pro で美しく撮影したからといって、その出来事を「完全に」撮影したことにならないのは明白であろう。もし「完全」と言いたいのであれば、この出来事を360°の全角度から撮影しなければ、映っていない箇所が残るのであり、それはすなわちこの出来事に関わる情報の明らかな欠落だからである。しかし、ではそうやってあらゆる角度から撮影すれば「完全」だろうか。これもまた十分ではない。なぜなら、その動画を撮影するカメラとソフトウェアの性能からして、たとえ 1/10,000 秒という僅かなインターバルで起きる特殊な事象があったとしても、それを捉えていない可能性があるからだ(もしかすると、その短いあいだに一卵性双生児の弟と入れ替わっているかもしれないし、あるいはサイボーグ009のようにウンコしに行って戻ってきているかもしれない)。こういうわけで、そのように考えても現代の技術では困難だと分かるし、そもそも原理的にも不可能であると分かるはずだ。撮影する角度なんて無制限に細かく変えられるし、撮影するコマ割りも無制限に増やせる。百歩譲って「無制限に」ではないとしても、実用的なレベルで条件を満たす撮影施設を構築することは、経済的にも物理的にも極めて困難だ。そもそも、その人物の身体を構成している原子とまではいかなくても、せいぜい分子の単位で動きを計測するような機器を使うとして、その機器から何らかの電磁波をあらゆる角度で身体に向かって一斉に放射すれば、たぶんその人物は目標地点へ到達するまで生きてはいないかもしれない。

もちろん、古文書だけに限らずあらゆる記述なり文書なり説明は不十分であり、書き手の知識や情報や知性に制約されており云々と言ってみたところで、そこからただちに陰謀論や偽書にも学ぶべきことがあるなどと言いたいわけではない。そういうものが書かれたという事実や、そういうものがどうして書かれてしまったのかというメタ的な研究の対象としては意味があるかもしれないが、陰謀論や偽書は、おおむねまともな文明国の大人であればさっさと無視して自分の生活や仕事や娯楽に邁進するべきである。そんなゴミクズに僅かでも「真理」だの「真実」だのを求める態度こそが、無知無教養の証というものだ。

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