Scribble at 2021-07-16 09:29:03 Last modified: 2021-07-16 19:15:41

「郷土史」という言葉を目にすると、多くの方はそれぞれの地域で保存されたり継承されている文化財だったり、いまはなくなってしまった風習や行事の様子とか由来を伝えるものだと思う筈だ。しかし、「学問」かと問われると、その担い手の印象として地元の高齢者が該当する場合も多いため、何か大袈裟な気もするし、かといって土地の暇な老人が語り継いだり調べている範囲だけにとどまるわけでもないだろう。

かつて恩師の一人であった森浩一先生は、「郷土史」にも関わりのある言葉として、「地域学」というアプローチを提唱された。このアプローチが提唱された趣旨の一つとして、律令制が成立するまでのあいだ、とりわけ古墳時代以前の時期を調べたり考察するときに、「国」(日本とかドイツという単位ではなく、「山城」や「武蔵」といった単位のこと)のような行政単位を枠組みとして持ち出すことは、端的に言って時代錯誤でしかないという理由がある。現在も埋蔵文化財にかかわる解説書の多くが「板橋区の弥生時代」だとか「東大阪市の古墳」といった表現を気軽に使ってものごとを捉えたり説明するけれど、弥生時代や古墳時代に板橋区や東大阪市など存在しないし、それらの区分を前提に生活し古墳を築いた者など一人もいない筈である。テリトリーあるいは〈地域・集落区分〉という観念が成立して、それぞれの時期において有効な意味をもっていた範囲を設定した上で、初めて「どこそこの文化」だとか「このあたりの行事」について語りうるのだ。

したがって、森先生の「地域学」がもつ着想を借りて「郷土史」という言葉を考えてみると、「郷土」が何か物理ないし地理の環境を区分している範囲を指すのであれば、その内容は人によって酷く異なる筈である。物理的な区分なら「客観的に」決まる筈ではないのかという疑問は、その意味が物理的な何を基準にしているのか逆に曖昧であるという点を無視した思い込みから生じている。寧ろ、物理的な基準を任意に設定して良いなら、従来の「郷土」という言葉がもつ区分よりも更に細かく分割しうるかもしれないし、逆に従来の「郷土」という言葉がもつ区分よりも更に広い範囲を指すように定義できるかもしれない。数戸の家族が生活する範囲だけに狭めたり、逆に日本全土どころか東アジアの全域にまで拡大できてもおかしくないからである。よって、僕は「郷土史」という言葉には学術用語として扱えるだけの正当な意味が(もともと)ないと思うし、原理的にも妥当に定義することは難しいと思う(だからいけないと言っているわけではない)。人が何を「郷土」と考えるかという思い込みや願望に依存する、どちらかと言えば出版・マスコミ業界のマーケティング・フレーズと言うべきだろう(繰り返すが、これは単に侮蔑しているわけではない)。

最後に余談だが、森先生の著作を好んで読む人々は、司馬遼太郎氏や松本清張氏などとの対談に登場して「ロマン」を語ったり、数多くのエッセイで少年時代のエピソードを何度も繰り返す様子から、森先生が現今の日本の考古学について多くの異議を掲げてきた論争的な態度を軽視したり、あるいは〈反権力の気骨〉といった錯覚によって誤解する傾向にあると思う。特に、森先生が従来の時代区分とか地域区分とか文化財の分類についての厳格な扱いを要求し、いわば手慰みに考古学の本を読んでみたり、暇潰しに発掘現場の現地説明会へ出向いて話を聞くだけの人々には到達できない水準の研鑽なり努力を通じてだけ語りうる水準の研究アプローチを求めた人物であったという事実は、先生を考古学界のカール・セーガンのような人物として忘却してもらいたくない一人として、ここでも強く強調しておきたい(僕は、寧ろこういう議論をしているときの先生を中学生なりに師事していた)。

既存の研究アプローチに対する森先生の批評だとかプレゼンス、たとえば「天皇陵」の多くを宮内庁とともに天皇の名前で呼ぶことには反対したり(「伝仁徳天皇陵」は仁徳天皇が葬られていた証拠がない以上、「大仙古墳」と呼ぶべきである)、日本共産党系のメディアに登場する機会が多かったり、原田大六氏を始めとする人物と交流して「町人学者」という呼称まで使ったり、あるいは入会資格の一切ない古代学研究会を主催したという表面的な事実だけから、多くの方々はアカデミズムへの反感といった、いかにもアマチュアに受ける態度を森先生に投影してしまいがちだ。しかし、僕はこうした事例の数々を知って、子供なりに震えるような気分になった思い出がある。なぜなら、それらの批評やプレゼンスが土台としているのは、素人に下駄を履かせるようなものではなく、逆に国公立(とりわけ旧帝大の)大学教員ですら愚かな思い込みや勉強不足が少しでもあれば問答無用で叩き潰されるような場所だからだ。

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