Scribble at 2024-02-05 12:43:15 Last modified: 2024-02-05 12:48:51

考古学の師であった森浩一先生や瀬川芳則先生らからは、考古学というアプローチによる記述や説明において、その厳密さや正確さをどこに担保するかという問題を教えられるところがあった。もとより、発掘された遺物や遺跡は文字による記録が乏しいし、たとえ文字が土器や木簡に認められても、その記載が正しいとするだけの傍証に欠けていたりするため、要するに絶対年(「この土器は西暦194年に作られた」とか)が語れないという限界がある。

したがって、考古学での年代というのは基本的に何かを基準として仮定したうえでの相対的な前後関係でしか議論できないし、その前後関係すら怪しい場合もある。例えば、古墳の形状や須恵器のような土器の編年などは、こちらよりもこちらの方が改良されたり発展したものだという根拠で、どちらがどちらよりも新しいとか古いと言っているわけだが、実際のところ本当にそうなのかどうかは判断が人によって異なる場合もある。

それから、正確に分からないという点では絶対年だけでなく、或る遺物の呼称・名称についても、実際にどう利用されていたのかもわからないのに、勝手な名前がついている場合もある。その典型が「前方後円墳」だろう。したがって、考古学として工夫できる厳密さというものは、あらかじめ一定のルールを設けて従えるなら、首尾一貫して従うほうが望ましい。そうでないと、記述や説明としてなにかしら読んでいる人に違和感を残すこととなり、学術的な内容とは別の点で相手に不信感を与えてしまうことになるかもしれない。

一例をご紹介すると、「馬そのものや鉄製馬具などは未発見であるが、四條畷市でも馬飼育がはじまって半世紀以上を経過しており、またこの付近が交通上の要地でもあることから、(1) 小規模な牧、(2) 駅のウマヤ、(3) 軍馬をおく軍事基地、などを想定することができる。」(『日本の古代遺跡 11 大阪中部』、瀬川芳則・中尾芳治/著、保育社、1983、p.219)という文がある。あまり違和感はないかもしれないが、僕は「四條畷市でも馬飼育がはじまって半世紀以上を経過しており」という記述は不適切だと思う。なぜなら、この厩舎跡が人々の生活の場であった古墳時代後期に「四條畷『市』」なんてなかったからだ。したがって、このような記述においては、説明したい遺跡や地域について最初に名前を紹介したり議論したい地域の範囲を定義して、その呼称、この場合なら「生駒西麓北部地域」などの呼称を一貫して使うというスタイルが望ましいと思う。

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