Scribble at 2024-03-23 09:03:23 Last modified: unmodified

日本で「自己啓発」と呼ばれているものは、英語だと "self-help" と言っているように、何か重要なことを自分自身に気づかせたり教えるという「啓発」のニュアンスよりも、寧ろ内発的なニュアンスや自主性なり動機を高めるたり強めることに力点が置かれている。したがって、日本で自己啓発本を書いている多くの事例では単なる人付き合いのテクニックや処世術になってしまっており、僕が日頃から侮蔑している二流の哲学プロパーが書いた『嫌われる勇気』なんて本も、実際には会社で嫌われやすい管理系の人々が「俺達の仕事は、やはり会社の役に立ってるんだ」とか安心するための本として読まれていたりする。正直、『嫌われる勇気』を読んでる営業マンなんて殆どいないと思うね。そういう顧客の偏りがあってすら、この国ではひと財産になるくらいの収入になってしまう。だから、大半の人文・社会系のプロパーは、まともな品質の英語で文章を書けないという理由もあるが、英語で論文なんて殆ど書かないのだ。

ともあれ、要は自己啓発と呼ばれているものも理解の仕方で有益になるだろうし、夥しい数の書籍が毎月のように出版されている中でも、道具として幾らでも活用できるものがある。ただし、日本で問題があると思うのは、第一に他人との話題にしている人が少ないことと、第二に企業研修では建前の受け答えが横行していることだ。どうもこの国では、たとえば子どもの頃でも「勉強の仕方」なんて話題についても、おかしな競争意識だとか恥や見栄の意識をもっている親がいて、どこの塾に通っているか秘密にするとか、家庭教師を雇っていることを近所にもひた隠しにするとか、ともかく隠れて何かをやったうえで良い成績だとか、あるいは子供が学校で恥をかかない程度の成績を上げることが良いなどと思われているようだ。これと同じく、自己啓発について話題にすることは出世競争の手の内を敵に明かしてしまうことにほかならないなどと思いこんでいるサラリーマンが多いらしく、酒席だろうと相手が部下や愛人だろうと自分が『七つの習慣』を読んでいるなんて話は殆どしたがらない。でも、これでは理解も深まらないし不正確なままでものを考えてしまうリスクがある。たいていの凡人なんて、東大を出ていようと理解力はしれているし、自分勝手なところがいくらでもあるからだ。したがって、言葉では "self-help" と言ってはいても、実際には(たぶん日本以外の国では)友人と話題にする人は多いだろう。

そして、企業研修で一緒に参加した相手とワークショップなどで議論するからいいではないかと思うかもしれないが、この場合でも効果は低いと思う。その理由として、まず第一にバラバラな別会社から集まった参加者どうしのやりとりだと、簡単に言えばその場の雰囲気で取り繕うような建前だけを喋ったり虚勢を張ってもリスクがないからである。自社の社員だけが参加している場合には、建前や虚勢で出鱈目を言うと後からフォロー・アップされて色々と言われかねないが、他社の社員なら何を言ってもリスクがないからである。そして第二に、自社の社員だけで参加したり自社に講師を招いて実施するセミナーの場合は、さきほど述べたことと同じく、本当に効果的な反省や議論が行われているのではなく、お互いに牽制するような会話が展開されるだけになってしまうことが多い。よって、発言した内容を後から会議や酒席で蒸し返されたり、言質を取られて余計な責任や仕事を押し付けられないように、みんな別の意味で慎重に発言するようになってしまう。これでは研修をやっている意味がない。

よって、トップ・ダウンで全社あるいは部下にこうした自己啓発を薦めるのであれば、やはり同僚や上司・部下などと話題にして議論することが各人の業績だとか昇進だけに寄与するなどという「教育ママの秘密主義」みたいな発想を捨てさせないといけない。やはり鍵は、日本人に特有なのではないかと思える部分最適化に没入する思考を捨てさせることにある。

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