Scribble at 2024-01-27 12:45:10 Last modified: 2024-01-27 12:50:55

古墳について考える場合、もちろん古墳という造営施設のことだけを調べたり考えているだけではいけない。多くの素人臭い妄想や思い込みが「古代のロマン」と称してデタラメに流布する第一の原因は、十分とは言えないにしても体系的な知識なりアプローチが欠落しているとか、十分ではないという、いわば知的な意味での穏当さなり誠実さを維持する態度が欠けているからだ。

これは、文化人類学や社会学や心理学の議論を応用することでも、色々と考えを広げられるし、それだけ現状では不明な点が多いということも逆に分かる。たとえば、みなさんが海外へ旅行したり、あるいは海外の事業者と取引するために出張するような場合を想定していただきたい。見知らぬ土地へ着いて、みなさんはいきなり現地の墓地へ行くだろうか? あるいは、着いてからしばらくして、亡くなった人を現地でどうやって葬っているのか調べたりするだろうか。たとえあなたが外交官や文化人類学者だったとしても、そうする目的や理由や事情もなしに、そんなことはしないはずである。

もちろん、古墳のような造営施設を日本へ取り入れた当時の日本に、墓や葬礼について特別な関心をもっていたオタクのような人物がいなかったとは言えないが、そういう人物は現在でも非常に少ないし(古墳を研究している考古学者自身ですら、自分が古代の「墓」や「葬礼」についての専門家だという自覚は、なかなかもたないだろう)、そういう人物が一人や二人ほど偶然にいたくらいで、文化や儀礼や習慣が他の国に伝わったり、それどころか国家的な規模で普及するということは、あまり考えられそうにない。よって、ここから自然に、古墳という造営施設についての技術なり思想が朝鮮や中国から日本へ伝えられた際には、何らかの脈絡や意図があって日本が取り入れたか、あるいは何らかの脈絡や意図があって外国側が日本へ伝えたかのどちらかが想定されるべきであろう。そして、それは古墳だけをいくら眺めても分からないことなのである。

考古学に限らず、歴史について考える分野(どういう分野にも「~史」という副分野があるけれど、実際には下位に分類するようなものではない)が、社会科学から自然科学など数多くの分野の知見やアプローチを有効かつ総合的に利用しなければならないと考えられるのは、こういう事例でも分かるだろう。

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