Scribble at 2024-04-28 16:38:48 Last modified: 2024-04-28 18:58:10

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川田 稔『柳田国男: 知と社会構想の全貌』(ちくま新書、2016)

このところ、ちくま新書は随分と分厚いタイトルを続々と刊行しているけれど、本書もその典型と言って良く、標準的な新書の二冊分と言って良い572ページを数える(ただし、値段は最近の標準的な新書が1,000円に迫ろうとしているのに比べて、本書はこれだけのページ数で本体価格が1,300円だから、C/P は良いと言える)。しかし、これだけのページを費やす必要があるのかというと、僕は一読した限りの感想で言えば、そんな必要はないと思う。単純に冗漫で、殆ど同じ解説や論点の繰り返しがひたすら多く、しかも柳田国男の社会思想や学問について、はっきり言って悪い点だと思えることが、何か重大なことであるかのように過大評価されているとしか思えない。

その典型は、柳田の農政学という非常に官僚的で、今風の言い方だと「デザイン思考」とか「神の目線」などと言われる、殆ど実証も論証もなく天下国家を論じる、旧帝大や旧制高校の学生などに特有の思い上がった社会思想を並べていることだ。しかし、それらのどこにも証拠や論拠はない。ただ単に、著者は柳田の著作から引用するばかりで、全く客観的な立場から記述しておらず、まったくもってエピゴーネンの本としか思えない。

そして次に、柳田の氏神信仰についての論説も、そもそも神道そのものが何の証拠もない伝聞を重ねてきたという経緯だけで「伝統」や「風俗」や「信仰」を名乗っているだけのものなのだが、それを更に日本民俗学という、素人文化人類学と素人社会学と素人考古学の寄せ集めみたいなもので正統化しようというのだから、呆れる他にない。これは社会学にも言えることだし、これまでここでも岸くんの著作などについて批評してきたことだが、聞き書きが学術の成果であると言えるためには、それらの他人の発言や説明や感情の吐露をどういう思惑でどう集めたかまで正確にコンテクストやアプローチを記述しない限り、それは単なるルポや絵日記にすぎない。しかも、本書の末尾で、柳田は宗教がベースだと言いながら氏神信仰を信じていなかったとも述べていて、これでは全く俯瞰した観点からの箱庭趣味的な社会科学でしかない。

ということで、これに加えて本書の中間あたり200ページくらいは、氏神信仰だの民間伝承だのを細々と説明するだけで何の論点に効いてくるのかまるで分からない、柳田の成果の羅列になっており、僕は本書は従来の250ページ前後で書ける内容の筈だと思う。

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