Scribble at 2024-06-30 12:38:17 Last modified: 2024-07-01 10:37:16

添付画像

The Big Lie About Failure and Success Everyone Believes

企業のマネジメントで頻出する話題として失敗の是非という話題・・・これ日本語の文には関係代名詞というものがないので、「~という話題として、~という話題がある」みたいな構文になりがちだよね。これを無意識に、というか僕はいつも気になるので自覚して避けようとしているから、回りくどい表現になりやすい。多くの場合、こういう事例に当たると、「企業のマネジメントで頻出する話題として失敗の是非という『議論』がある」と、なるべく無害な言葉で置き換えることが多い。よく、こういう事例で「~という『もの』」とか「~という『こと』」とか、明治以降の「翻訳調」と呼ばれる文体で濫用されるようになった言葉を使う人もいるけれど、何か落ち着かないので、使うこともあるにはあるが、できれば使いたくない。

些事はともあれ、「失敗を恐れるな」とか「失敗に学ぼう」とか「失敗を叱るのは悪い上司であり、X 世代からは総スカン」みたいな、一定の条件では有能な役職者として耳を傾けるべき点もあろうかと思う。だが、実際には大半の失敗は単なる無能や凡人の下らないミスでしかない。昔ならブン殴って済ませていたところを、昨今の軟弱左翼どもに遠慮して、どうやって体裁を取り繕うかという話でしかないわけだ。よって、僕のように「小さな失敗を許容して会社全体のレベルを少しずつ引き上げていく」なーんていう、いい人ぶったマネジメントを提案したりするわけだが、もちろんそれが事業継続を困難にするほどの大失態にならないよう、Dropbox のセキュリティ設定をわざと「初期設定」と称して厳重にしたり、無知で無能な外注や、営業代理店のクズどもと簡単にファイルを共有しないようにしたりしているわけだ。確かに、そのようなことをやりすぎると「仕事がやりにくい環境をつくる人」という反感なり敬遠を社員に与えてしまうため、重要なポイントだけに限り、それ以外は情報漏洩が起きようと大事には至らないようにしてある。

正直、失敗を(とりわけ無条件に)許容できるなんて馬鹿は会社を経営したり、マネジメントに携わってもらっては困る。そして、もちろん同じ意味で失敗を(とりわけ無条件に)許さないなんて馬鹿も会社を経営したり、マネジメントに携わるべきではないのだ。そういう、凡人のくせに例外のない原理原則みたいなものを建てて会社を経営してはいけないのである。根本にある道徳や倫理観ですら時代や状況によって判断の基準が変わったりするのだから、そこから組み立てられる企業理念や経営方針なんてものを、われわれ哲学者ですら困難であるのに、凡人の分際で無条件の原理みたいに打ち建てられるわけがなかろう。そういう失敗礼賛みたいな話は、脱法行為で金儲けするためのモチベーションを引き上げるために、リバタリアンや「一定の精神気質」の人々が主導するミスリードなプロパガンダでしかないのだ。

そもそも、たくさんの失敗をした人が成功したという「報道されたり書籍に記録されている事実」は、全て生存バイアスという偏見の結果でしかない。概して言えば、100年そこそこの歴史しか無い未熟な経営学などという学問は、その成果の大半は生存バイアスや、仲良しの大金持ちや大企業の経営者からの聞き書きを論文と称しているにすぎないのである。冷静に考えればすぐに分かることだが、市場においては失敗した企業は倒産するので、市場においてはそもそもプレイヤーとして消えていなくなるのだ。よって、プレイヤーとして市場に参加し続けている企業は、失敗していようがいまいが、単に生き残っただけの企業なのである。

そして、数週間前に弊社の顧問の著書について述べたように、失敗から学ぶべきことがあるという点には同意できる。でも、そういう過去の失敗が参考になる可能性は、「失敗学」などと簡単に言っているほど高いものではないのである。ただ、だからといって失敗に学ぶことなどないとか、成功した企業の「勝ちパターン」を学べ、みたいなクルクルパーの営業マインドで売上を伸ばせるのは、*通信のようなチンピラ会社に限られる。そもそも、成功からだろうと失敗からだろうと、簡単に他人の成果や成功や失敗から自分自身の仕事について的確に応用したりフィードバックなどやれるわけがないのだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook