『やちまた』覚え書き

Takayuki Kawamoto

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First appeared: 2017-09-10 10:06:49.

はじめに

このページは、『やちまた』を読んでいるあいだに気づいたことや、『やちまた』を読んでいて考えさせられたことの覚え書きを書き溜めてゆくページです。このページ全体として、何か一つのテーマを設定しているわけではありません。また、書き留めたいことがあれば後から幾らでも追記します。それぞれの覚え書きどうしには前後関係や論理的な関係はないので、「第何節」といった章立てはしていません。また、同じ箇所について後から文章を追記することもあるため、段落の始めに追記した日付を書き加えてあります。

壱岐と美濃のはたらき[2017-09-10]

[...] 教授は、失明後の春庭を妻や妹が助けて『詞の八衢』の名著を成したといったけれども、その論証は精密で、教授自身「盲目の学者の仕事とは信じられぬほど」と補足したように、そんな作業が語学に特別の知識を持ちあわせるはずもない女性に果たして可能なのだろうか?

[§1, 1974a:20, 1995a:24, 2015a:26]

壱岐と美濃については、春庭と壱岐との結婚を描く第6章から述べられていて、それ以降の要所で宣長や春庭の著作の代筆、歌集に収められた各人の句、それから当人が書いた短冊といった限られた資料からの想像が積み上げられ、成果は第18章に集約されています [§18, 1974b:283-288, 1995b:297-302, 2015b:325-330]。もちろん、それ以上の推定には資料も分析も足りず、上記の問いは後世の我々にも引き続いて投げかけられているのでしょう。恐らく、その解答なり仮説が、学術的な水準として十分な推定に達するのは不可能なのかもしれませんが。

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壱岐の没年と戒名[2017-09-10]

壱岐もこの歌会の二か月のち、天保十一年正月二十三日、六十歳で世を去り、春庭の墓に葬られた。「雅静院淑和慧厚大姉」という法号は、壱岐の人格をうまく要約しているようである。同年の十三回忌に壱岐の二首が見えるが、これは遺詠であろう。もとより、現実の壱岐は女のいやらしさも当然持っていただろう。しかし、春庭を追慕するときには、そうした人間の暗黒の襞はかくれ、宗教的な愛情に近いものばかりがあらわれている。そのことは春村や飛騨や美濃でも同じで、それは稀有の容易ならぬことのように思われる。

[§20, 1974b:373, 1995b:389, 2015b:425]

この一節には幾つか指摘できることがあります。まず、初版 (1974b) では、壱岐の戒名の「慧」は「恵」となっていました。本居宣長記念館では、『やちまた』1974b と同じく「雅静院淑和厚大姉」とされています。藤堂他/著の『漢字源』(改訂第4版, 学習研究社, 2007, p.565)によると、「慧」を「恵」に書き換えることがあると追記されていますが、戒名を引用する際に書き換える理由はありませんし、失礼にも当たるでしょう。朝日文芸文庫版 (1995b) では「慧」となっていますし、河出書房新社から出た改訂版で直されたのかもしれませんが、あいにくその版は所蔵していないので確認できません(なお、松阪市のサイトでも「雅静院淑和厚大姉」と表記されています)。

次に、平成17年(2005)に本居宣長の子孫である本居芳野さんから、同家に伝わる資料のうち寄贈されていなかった物品721点が本居宣長記念館へ寄贈されています。その中の資料に「天保十二辛丑閏正月廿三日卒、葬式并手覚帳、恵厚大姉、本居」とあるそうで、壱岐の没年は天保12年 (1841) 閏正月23日、享年61歳と訂正されたそうです。この告知は本居宣長記念館が2008年9月2日に公表したものですが、それから10年ほど経過した現在でも、まだ60歳で亡くなったと書いているサイトも多いですし、国立国会図書館のデータベースですら「1761-1820」と登録しています(壱岐の生年は1781年なので、国立国会図書館は生年も没年も間違えて登録しているわけです)。

それから細かい表記についてですが、壱岐の菩提寺でもある樹敬寺は浄土宗の寺院であり、本居家は浄土宗の信者ですから、仏門へ入ったしるしである「戒名」を、日蓮宗系の「法号」という呼称で表記するのは不適切かもしれません(もちろん意味合いは同じなのですが)。

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人生に関心をもつということ[2017-09-11]

こんなふうに語学者たちの墓めぐりをしてみると、墓とはつくづく奇妙なものだと思う。大体、同じぐらいの大きさの石にいくらかの文字が刻まれているだけだけれども、それぞれに個性があり、その人の人生を凝縮した石彫のように見える。

宣長、秋成は別として、そのほかの語学者の名は専門学究以外にはほどんど知られていないことが多かった。名だけはいくらか知られているとしても、業績についてはほとんど地元でさえ理解されていない。ことばは人間が社会を構成する基本の条件にもかかわらず、ことばの研究に生涯を費やした人のことはほとんど世人の関心をひかないというのは奇妙なことではあるが、近代以前においては国語学はまったく特殊で、孤独な学問であったからであろう。

それにもかかわらず、宣長だけでなく、鈴木朖や義門にもその業績を保存しようと心を砕いている子孫があり、さらにごく少数ではあるが、業績の研究に一生を棒にふって悔いない学究が必ずついているものだということも墓めぐりで知った。そのことはわたしにことばと人間、あるいは人生そのものを考えさせた。

[§19, 1974b:336, 1995b:352, 2015b:384]

足立さんがそれまでの経緯を振り返って思うところを綴っている箇所は幾つかあって、上記の一節は、足立さんが文法や言葉に関心をもっていただけでなく、それらを研究した人々の人生についても関心をもっていたことがよく分かる文章だと思います。

そして最終章の文章で、足立さん自身の人生についても以下のように触れられています。

こうして『春庭悼善歌』を繰っていると、無数の、さまざまの人生が静かに完結してゆく気配が聞こえてくる。それはまた、星座のようにも見える。長い時を追うて、星は一つずつ流星となって落ち、あるいは溶明のなかに一つずつ消えてゆく。つねに、それは一つずつなのだけれど、透明な糸のようなものでつながっているようにも見える。

生きていくということは、結局、たくさんのいろいろな死に立ち会うということであろうし、わたしも祝日古や遮莫や腸の死にざまに立ち会ってきたし、さらには戦場ではおびただしい死を見、あるいは母の死をも見送ってきたけれど、そういう直接に目撃したなまなましい死ではなく、春庭につきあってきたおかげで、陰影のようなさまざまな死にもふれることになった。

春庭の最後の追悼歌会の営まれた慶応三年十一月といえば、幕末の動乱期の渦中であり、坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された月である。そういう激動の中で、まるで時代とは無関係のように、ひっそり松阪という町の片隅で、ひとりの盲学者の影前歌会が催されていた。ここで『春庭悼善歌』は終わるのであるが、翌年は明治と改元され、江戸城が東京城と改名された年にあたる。春庭の影前歌会も、その語学の業績もろとも、明治という新しい時代の波にゴミのように呑みこまれていったのである。

[§20, 1974b:376, 1995b:392-393, 2015b:428-429]

『やちまた』を読み返した何度目かに、上記の最後に出てくる「ゴミ」という表現に複雑な意味合いを感じました。春庭を追悼する歌会だけでなく、彼の業績ですら、新しい時代の流れには全く逆らいようもなかったということになりますが、足立さんは春庭の業績が「現代の」国語学の基礎になっていることはご存知なのですから、ここでは春庭が没してからどれだけ春庭の業績や人物について研究されてきたかという点について言及されているのでしょう。そのときに足立さんの念頭にあったと思われることは、『やちまた』の第1章で「春庭は当時の国語学専門学者にもあまり知られず、まして正当な評価を受けていなかった事実を知った。それは国文学界における国語学の評価にもあてはまることらしく、上田万年は怒りをこめて糾弾しているのだった。その純粋な怒りはわたしに伝わった」という、足立さんが明治期の国語学や春庭の評価について受けた印象であったろうと思われます [§1, 1974a:26, 1995a:31, 2015a:33]。

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