Scribble at 2018-02-23 07:43:39 Last modified: 2022-09-24 18:12:25

平昌冬季五輪(ピョンチャンオリンピック)のノルディックスキー複合個人ノーマルヒルで、2大会連続の銀メダルに輝いた渡部暁斗(北野建設)が、五輪直前に左肋骨(ろっこつ)を骨折していたことが分かった。全日本スキー連盟(SAJ)が22日、明らかにした。

渡部暁斗は骨折していた 五輪直前肋骨、痛み耐え銀

朝の NHK では、美談とまではいかずとも興味本位で扱われている印象を受けた。日本人というよりも日本のジャーナリズムは、この手の「ど根性ストーリー」には入れ食いで食らいついて取材したり空想したり物語るもので、まったく辟易してしまう。

結局は日本で「ジャーナリズム」を厳格に考えたり実行しているのは限られた人々であり、しょせん大半の(しかも大手報道機関の)サラリーマンどもはコミュニケーション論や社会心理学の学位はもとより、やはり入社したら小手先の技術や記者クラブの礼儀作法のようなものばかり教え込まれている素人集団にすぎないということなのだろう。「視聴者の代表」とはよく言ったもので、ジャーナリストとしての見識すら素人ということなのだ。彼らが北斗神拳よろしく社内で継承しているノウハウというものは、実のところ自民党や経産省や日経連や公安や住吉連合や創価学会との伝手だったりするわけで、いまで言うところのクリティカルシンキングや資料批判の理屈とか各分野の専門知識などではないのだろう。

もちろん、報道機関なくして、僕らは隣の行政区どころか隣の町で起きた犯罪や、国会で交わされている幼稚な質疑を知るのは困難である。したがって、朝日新聞や産経新聞や NHK という報道機関そのものに消えてなくなってもらいたいわけでもないのだが、サンスポや東スポやフジテレビやテレビ朝日くらいは無くなってもいい。つまり報道機関という仕組みや産業は必要だが、個々の法人は無能なら市場から追い出されなくてはならない。日本のジャーナリズムは、ライターや記者という下っ端では流動性があっても、法人としての流動性がなさすぎる。そういう法人の安定した経営というものは、やはり彼らの成果によるものでなければならず、何か個々のマスコミの存在を権利であるかのように保障してはいけないのである。

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