2017年12月28日10時41分 に初出の投稿

Last modified: 2017-12-28 10:41:30

竹内健‏ @kentakeuchi2003 日本の大企業って不思議。ちょっとした外注には随分お金をかけるのに、最先端の研究を大学とやるのに、はるかに低い金額しか出さない。一方、海外の大学には桁違いのお金を払う。「それが相場だから」と言われるけど、金額の多寡よりリスペクトの無さに、協力する気が失せる。これなら海外企業がまし。

どこの国や社会であれ有能な人材の成果に凡庸あるいは無能が依存するのは自然なことだ。税制の累進制は、実はグローバルに考えると一部の金持ちから税金を何割増しで取ったところで大した意味はないのだが、累進制という考え方に「先を走るものへしがみついて進む」という、凡人に最適化した社会制度の思想が見て取れる。もちろん、これはバカにして言っているわけではなく、こう言うのが適切かどうかは分からないし、これも一つの皮肉に聞こえるかもしれないが、逃れることなどできないヒトの限界にもとづく「リアリティ」なのである。

したがって、はっきり言えば子供に哲学なんて教えてる暇があったら、そもそも知識や学問や実験といった営為や仕事の「実務」に対する理解と敬意を育てることを優先した方がよいと思う。そして、そのためにも、たとえ小学校の教員だろうと(形式主義なのは分かるが)学位を要求するのが適切だと思う。自分自身が学術活動というものに携わっていない、端的に言って学問に関する素人としか言いようがない日本の学校教員が学問の一端を子供に教えるというのは、どう考えても有効ではない。当人に学問や知識に対するリスペクトがないどころか、そのための実務についてすら殆ど知識や情報をもっていない「センコー」が英語や数学について生徒に関心をもてといっても説得力などあるはずがない。そして、そういう見識を教員に要求するためにも、学校教員にクラブ活動の顧問をやらせたり(スポーツはスポーツ専任の人に任せてすら、医学的な見地から言って危険な場合がある。学校教員が、たとえ全国大会レベルを目指していなかろうと、片手間にやるのは、かえってスポーツ競技に対する子供のモチベーションも下げてしまうだろう)、いじめを始めとする単純な「未成年による犯罪行為」を取り締まったりカウンセリングするのはやめるべきである(僕は何度か書いているが、一定以上の人数が集まる学校には交番が必要だと思う。教員に子供の犯罪を抑止する能力はないし、そもそも教員にそんな権能などないのだ)。要するに、学校教員に「全人教育」などという素人哲学やカルトのような妄想を押し付けることは、今世紀中には止めるべきなのである。

すると、これは数日前に海外のサイトで話題になっていた "educationism" や教養主義あるいは学歴主義を促進するだけとなるのだろうか。僕は、一定の特別な役割や社会的な影響力をもつ職業については、そういう規準を(擬制としてであれ)設定するべきだろうと考えている。これが、いわゆる低学歴の人たちを教職から遠ざけてしまうという点で権利を侵害することになるのは分かるし、日本人だけでなく海外でも「学歴はないが『いい先生』」というファンタジーの主人公をもつストーリーが山ほどあるのも知っていて、多くの人が知識や情報だけをもつ人物に「人間味がない」といったステレオタイプを押し付けて、自分たちの凡庸さを防御するロジックを捏造したがる傾向があることも知っている。そして、それは結局のところ神のような万能さをもたないヒトの思考なり行動としては無理からぬことであり、社会思想や社会政策はそういう事実をもとにして打ち建てるのが適切だと思うが、そういう凡庸さに部分最適化だけをはかっていると、恐らく人類の文化や存続という全体最適化としては行き詰まるだろうと思う。社会を防衛するためには、もちろん個人の意思や意欲を極端に削いだり否定する社会主義的・全体主義的な制度は可能な限り抑制しなくてはならないとは思うが、「制度」や「政策」や「法律」というものは、本質的に人々をコントロールするものであり、これらに対する民主的な決断というものは自らが有限であることを認める人々による、自身の能力に対する疑いや謙虚さの結果でもあり、否定するだけでいいというものでもない。

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