2017年10月15日14時44分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-10-15 14:58:31

昨今、国内外ではマスコミ各社が「自分達が報道しているのはフェイクニュースではない」と躍起になっているけれど、それを声高に叫ぶだけでは何の根拠もないというのがメディアリテラシーの基本なので、やはり君達報道各社がいつまでも新聞の購読者やニューズ番組の視聴者をバカにし続ける態度を改めない限り、僕らのような人間から見ると、新聞記者と政治家が Twitter でそれぞれ何を書いていようと「目くそ鼻くそ」という話になる。自分達の報道内容がフェイクではないと胸を張るためには、報道にあたって必要な手続きやソース(情報源を特定できるできないは別として)や記事執筆・編集方針などの説明を、せめてウェブサイトにでも詳細に掲載するべきではないのかな。僕らはテレビ局や新聞社に「真実を語る白紙委任状」を与えた覚えはないよ。マスコミだけでなく大学の研究者であろうと、およそヒトに真実なるものを無条件に語る資格や能力なんてないし、そうしていると暫定的に見做してよいという擬制を制度的に正当化する根拠としての効用なんて、そもそも社会科学の歴史において論証された試しはないだろう。

しかしそうすると、僕はしばしば擬制としての権威なるものを許容すると言っているのだが、それにも確たる根拠がないということになる。ここで「条件付で許容するなら、どういう条件になるのか」という後ろ向きの保守的な反省を促すインセンティブがあるのはもちろんだが(自分が矛盾した思考をしていないと慰めたくなるのは人情だ)、もちろんそんな自意識のために哲学や思想や社会を扱うのは恥ずべきである。よって、これまでの「擬制としての権威主義」といものは、根本的に再考の余地がある。学術や知識を尊重する社会が良い社会だという見込みで維持してきた理屈ではあるが、その思想としての射程は短すぎるのではないか。

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